ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

思考の断片、生きること、揺れ動くイメージ、環境。

 試験で何を歌ったら良いか聞かれて、ヴェルディの歌曲と答える。

 ヴェルディと書いたときに妙な違和感を感じた。カタカナだからだろうかと思ってVerdiとイタリア語にして見たけど、違和感は変わらなかった。これは記憶と言葉の関係に何か変調が起こったということだろう。

 自分の中で持っていた知識、作曲家であり、様々な歌手たちが歌っている、安定した認識の上でのヴェルディと、自分が書いた言葉としてのヴェルディはどこか大きな違いがあるような気がする。ヴェルディと書くのはやけに不安定だ。しかしイメージというのは人間の中でも生命の部分が思い描くものだから、本来安定しているはずがなく揺れ動き続けるはずだ。ヴェルディという言葉の意味もイメージに合わせて揺れ動く。

 この揺れ動きは何か喜ばしい不思議さを与えてくれる。僕はこの不安定さをもっと感じたい。

 はじめてヴェルディという言葉を知ったときこの言葉は色々なものを連想させてくれたことだろう。ウェンディみたいで女の子の名前に似ているし、なんとなく藍色のイメージがする。カルディみたいな雑多感もあれば重々しいイメージもする。不安定さは、それだけ受け取れるイメージが多いということだから喜ばしい。

 すべてを初めて見たときのように見る。

 不安定だから生物は存在できる。イメージは生物の機能だから、不安定なものだ。揺れ動くことによって安定している。字義通りに思ったり、固まったり動きを止めることはむしろ生物としての安定を損なう。

 


『野火』とは生きることに関する小説だ。読んでいて感心してしまった。生きることが動くことであり、それは何か動いていた存在の集まりであるところのこの身体が証明している、とこの間教わったのだけど、大岡昇平も同じことを言っている。いや、この敗残兵たる男が言っているのだけど、小説の中で作者と主人公との違いとはいったいなんなのだろう。

 この意識とかいうものはいくつもの原子の寄り合いであるところの自分から生じているのだから、死ぬということは行動が止まることである、分解されてそれぞれ動き続けるものに分裂するということだ。一個の社会の崩壊ではあるがデストロイではない。そう考えると原子力は怖い。あれは原子を破壊するらしいからデストロイに近い。

 


 ある考えが浮かんだとき、考えだけを記述すると情報量として万全じゃないのだと思った。

 考えが浮かぶということは、周りの環境やそのときの身体の状態に左右されている。だから考えに至るまでの状況が大事だ。

 23時の暗い部屋の中でふとこの考えが浮かんだ。少し眠い。

 天体のハルモニアの共通原理は共鳴にある。