ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

感じているだけの僕を優しく抱きしめる偶然

 『野火』という小説にはいくつも答えが書いてある。人間が死ぬときのこと、生きるということ、疑問を持つこと、生き続けること...。それはなんの答えだろうか。それは生きることの問いへの答えだ。

 生きることとは何か、生きるためには何をすればいいか、生きるときに起こることは何か、全てが書いてある。こんなに書いてあっていいのかと思う。書かれていることにびっくりするということは、書かれていないことの情報量はもっと多いはずで、ほんとうはそっちの方を感じていて僕は答えだと思うのかもしれない。

 ルロイ・アンダーソンという作曲家を教えてもらった。その人のオーケストラ作品を聴きながらこれを書いている。偶然性について考えた。神と偶然性はとても似ている。神に身を任せるというのは偶然性に身を任せるということだ。これは千葉雅也がいつか言っていた。しかし宗教を信じる人の話を聞くとどうやらほんとうらしいと思う。僕の考えだったのか千葉雅也の考えなのか、それらは惹かれ合うような形で僕の中に生まれたのか、それはわからない。

 『野火』という小説をこのタイミングで手に入れてこのタイミングで読んだのは、全くの偶然だけど、しかしまさにベストなタイミングであって、このベストなタイミングに偶然『野火』が僕のもとへ舞い込んできたのは何か必然のようなものを感じる。偶然性の、神の、思し召しのように思えた。僕の意思とかそういうものは意外とその程度というか、偶然性に流されているだけなのではないか。運命論の中に埋没したいわけではないが、巻き込まれて進むことが多く、舞い込んだように自分のもとへ集まってくる本たち、人たち、音楽たち。幸せなことだ。

 もしも偶然性がすべてを支配しているのだとしたら、僕のこの自我とか意識というやつはただ、起こったことを感じてるだけのものだ。感じているだけの僕。そして動かされるだけの僕。その二つ。身体と精神と、分かりやすい二元論で考えられるのか、感じたことを書くより動かされた経験について書いた方がよっぽどいいものが書けるというのと、偶然性は関係しているはずだ。

 自我とは、感じているだけのものかもしれない。この考えは『野火』を読んでいて浮かんできた。この考えが浮かんだのも、この文章を書いているのも、あなたが読んでいるのも、全くの偶然だ。偶然性は僕らを包み込んでいる。それはきっと優しい抱擁だろうと思う。この文章は何故か宗教的な文章のように思われる。それだって多分偶然の気のせいだ。感じているだけだ。

 自我はあらゆる点であらゆるものと繋がっている感じがする。連想ができるのはこのためだ。ひとつの物事がほかの物事とつながる。想起させる。

 脳細胞の連結の図は宇宙に似ているのを見たことがある。脳は全くもって宇宙的だと感じるから、もし脳が宇宙のミニチュアだったとしても驚かない。

 脳とはただのミニチュアではなく、宇宙を内包していて、この宇宙の外には脳があり、そんな感じでそれぞれの脳は再起的に宇宙であり続ける、みたいなことを考えて面白くなった。この文章はいわゆる電波というやつだ。もしくは厨二病。それでいいや。

 自我とは感じているだけの存在で、すべてに内包される偶然性に巻き込まれて身体が動かされていると考えると、生きるのがずいぶんと楽になる感じがする。こんなふうに矮小化しなくてもいいのかな。これは矮小化なのか、なぜこの文章を書いてるのだろうか。