ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

独立した言葉が書きたい。

 人間は生物であって言葉じゃないから、言葉を使っていたとしてもやっぱり生物の領分で生きて行かなきゃいけない。

 言葉を巧みに使う人は言葉を書くことで言葉の外を書いているような感じがして、それは生物の世界に寄り添ったイメージを描いているということなのだろうと思った。

 出ている音やそこにある言葉の裏にある非常に大量の情報に溺れているのが僕らと言葉の、本当のつながりだ。言葉の世界に属しているものに動かされていると、その大量の情報を忘れてしまう。書かれた言葉ではなく何を書こうとしているかが大切だっていうのは、受け売りだ。

 言葉の世界で流通しているのはなんか表象とかと近くて、それを生物の世界に転用しているからおかしなことが起きて、面白いことも多いけれど大変なことも多い。

 お金とかがそうで、お金は人間関係を築くものだったり人と人の間を潤滑にするけど実はお金って必要なくて、例えば俺が歌えて、それで人が喜んでご飯を食べさせてくれればそれで良いわけで、そうならないのはなぜかよくわからない話だ。

 僕らは言葉とつながったり言葉を介してつながったりするときにお金とかネットワークのようなものが必要になるのかもしれない。今は言葉を介してつながる方が主流だから、ついお金が必要な気がしているけど、生物として生きているのであればお金ななんか本当は必要ないというか、そんな気がするのだが何を言ってるのかわからない。凝り固まった頭になってしまう。同じことを繰り返すのもきっと言葉の回路の何かおかしな作用だろう。

 アルツハイマーの老人なんかは言葉の回路に不調が起きただけで、そもそもそっちの方が正しいというか、人間が言葉に触れて狂わないでいられる方がむしろ狂ってい るというかそんな感じすら受ける。赤児はかわいくて、動物はかわいくて、赤児は動物のようにかわいいと言ったら怒られるかもしれない。しかし言葉でそう言った無理やりなネットワークを作らなければ、自分で産んでいるわけでもない赤子をかわいがるなんてできないんじゃないか。生物的なつながりがあるというところで母と子は何か不思議なものがある。グロテスクな感覚だけど、それって生物と言葉がどちらもホントはグロテスクだからなのか、いやそんなことはないと思った。

 ある人間関係の中で死ねと命じられたときに、生きるということが始まる小説を読んでいる。めちゃくちゃ面白くて、その前に読んでいた小説よりずっと面白くて、そういう風に比べるのは良くないけど、尺度とかではなくやっぱり独立したそれぞれの物語として見た時に、独立してる物語、独立している世界は素晴らしい。

 人間は無数に結びついた言葉を切り離してなんか箱庭化みたいなことをしてるんじゃないかと思った。独立した言葉は美しくて力強い。そういう言葉は甘える感じがなくて良い。ほかの言葉との結びつきを必要としていない。ほかの世界との結びつきを必要としていない。この文章のように、そういう言葉を中心に据えて渦巻状の意味で囲ってしまうのはグロテスクなことだ。独立した言葉が書きたい。