ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

「簡単に文章を書く方法」を考えようとした男が、失敗してしょんぼりするまでの一連の思考の過程。

 簡単に文章を書く方法を発見したかもしれない。僕は毎日何かを呼んで何かを書いているので文章に触れる回数が多く、文章に関して何か考えたり感じたりする事も多いから、それはつまり文章を扱う練習をしているわけだから、こんなふうに何か思いつくことがある。だから色々書いているということなのだけど、もっと詳しく考えた方が面白いと思ったのでこうして今書いている。人間は何でも練習すれば上手になっていくみたいだ。

 僕は簡単に文章を書く方法、というこの文章を書きながら自分の理論を実践してみるつもりだ。だから読みづらいところや込み入ったところがあるかもしれないけれどそれはご容赦願いたい。何しろこんなことを試すのははじめてだから。そのうちきっと上手になってそうしたら同じ主題でもう一回書き直すかもしれないので、もっと洗練された文章を望む方は数日か数週間か数ヶ月か数年か待っていて欲しい。いつかちゃんとわかりやすく感じやすい文章論を書くだろうと思うから。

 僕は一個前の記事で、創作とか天才とか修行について書いた。

 創作とは疑問を問いに変えてそれを解決する過程で生まれるもので、天才とは疑問を持ち続ける人のことであり、修行とは、問いを解決する過程そのもののことを言う、とそれぞれ定義づけた。この定義はもちろん僕の言葉で僕の考えた定義なので読んでいるあなたはしっくりこないかもしれないけれど、この文章では天才とか創作とか言ったらそういうことだと思って欲しい。もしくはあなたの天才という定義と僕の定義の間に関係している部分があれば、それを補ってくれたら、書いてる身としてはいちばん幸福だと思う。

 簡単な文章の書き方について本格的に考えていこうと思う。

 僕たちは文章を書くときにまず何に一番困るだろうか?書き出し、と言う人もいれば言い回し、と言う人もいてそれぞれ人によって違うと思う。ただ、僕が思うに文章が書けないと言うとき人は何に困っているかと言うと、書くことに困っているのだと思う。

 文章とは単純に書くことを一から順番に並べていけば出来上がるはずで、内容の道筋が見えていれば必ず書けるし、終わるところもわかるはずだ。

 創作とは、僕の定義では、疑問を問題のしてそれを解決する過程で生まれるもの、ということだった。

 であれば、その疑問が生まれたり、疑問を自覚したところから、それを解決するまでの過程を書いていけば、自然と文章になるのではないかと思った。形式で言えば報告書と同じだ。それを正確に、感情も一緒に記述していけば一つの文章になる。

 まず、疑問を思いついた時のことや、疑問を自覚した時のことを書く。それからその疑問を問いの形式にする過程を書く。そしてその問いの解決に迫る過程を書き、解決したら結論を書けばいいし、解決しなかったら考えの過程を書けばいい。

 こうして書けば時系列もはっきりしていて、書く内容には絶対困らない。なにも書くことがなければ世界を見回して、疑問を調達してくればいい。それを問いにまでできれば後はそれについて考えたことをその場で記述していけばそのまま文章になる。これはすごい発見なんじゃないかって思ってる。勝手にいまワクワクしている。

 よく考えると、いや考えるまでもないけれどこれは一般的な文章の書き方、とか教科書に載っている範囲のこととほぼ同じことなんだけど、こういう風にわかりやすく言ってくれた教科書あったのかな、もしかしたらちゃんと教科書は説明していて、僕は全然教科書を読めてなかったのかもしれない。

 またこれは冒険の方法論でもある。何があるのかワクワクして、そのワクワクを原動力に、この先に何があるのかという問いを解決する行いが冒険だからだ。つまり文章を書くことや、創作一般は限りなく冒険に近い。僕たちは言葉の世界を冒険している。言葉は自分が支配しているものではない、ということは思索の中で言葉の世界を冒険していくことで、ベッドから出ずに新たなことに気づいたり新たな世界を発見したりできるかもしれない。これは、幸せなことだ。お金もかからないし面白いし、一歩も外に出ないからウイルスにだって負けない。

 では、先ほどの文章の書き方を再現性があるやり方にするべく、それぞれのフェーズを分類して名前をつけて扱いやすくしておく。

 ①疑問を思いついた時のことや、疑問を自覚した時のことを書く段階を「発見期」

②疑問を問いの形式にする段階を「発問期」

③その問いの解決に迫る過程を書く段階を「思案期」

④解決したら結論を書く、解決しなかったら考えの過程を書く段階を「結論期」とする。

 あれ、これって普通に論文の序論、本論、結論ってやつじゃない?と思ったあなた、僕も書いていてそう思った。こうして得意になって書いてるこれってたぶんみんなが書いててわかってることをようやく理解したつもりになってるだけなんだろうなって思ってすこししょんぼりしている。

 とはいえ、これに沿って一つ文章を書いてみよう。フォーマットの一つとして使えれば、何かの役に立つかもしれない。とりあえず僕は疑問を探してみる。なんかもう本末転倒な感じもするけど、それでいいのだ。

 


 <発見期>

 さっき、「簡単な文章の書き方」という文章を書いた。小林秀雄の『考えるヒント』という文庫本を読みながら、疑問→問い→解決の過程→結論、私見のようなもの、という形で文章が進んでいくのを見て、面白いと思ったからだ。

 これをきちんと体系立てて考えれば誰でも小林秀雄の論述ができるのでは?と思い勇み足で色々書いてみたけど、そんなことは決してないらしい。書いたのは結局、ようするに一つのフォーマットであって、それも定型と呼ぶにも値しないようなあんまり出来のよくないフォーマットだった。

 ただ、フォーマットは便利だ。僕ははてなブログのデザインのフォーマットに助けられているし、いろいろなところで自動化できてとても助かっている。

 ではなぜ文章のフォーマットになるとこんなにも使いにくいのだろうか。なぜこうもままならない物になってしまうのか疑問に思った。

 


<発問期>

定型に当てはめて文章書くのはとても難しい。しかしどんな定型でも使ってみないことには有用性はわからない。あらゆる知識は実践に利用してこそ意味がある。

 だからこうして書いているけど難しい。とにかく今問いを立てようという方向に向けて文章を書いているはずなのに疑問が一向に問いになる感じがしない。思考は自然に流れていて、その流れを恣意的に歪めたり止めたり別の方向に向かわせたりすると具合が悪くなってしまう。言葉と体調はひどくつながっている。

 やっぱり定型通りに書くということは僕の身体に合っていないみたいだ。では、なぜ定型が体に合わないのだろうか。という問いをひとまず立ててみることにしよう。これについて思案してみる。

 そもそも定型を自然と使いこなせる人などいるのだろうか。これももう一つの問いだ。

 そして定型を使いこなせる人とそうでない人がいるのであればその差は一体何なのだろうか。三つも問いができた。

 


<思案期>

 まず、僕がなぜ定型を上手く扱えないのかについて考えてみよう。

 おそらくそれは定型の持つ力に原因があるはずだ。文章は思考が流れを持っているときにいちばん書ける。言葉は独特のリズムを持っているからそのリズムに沿って書いている時がいちばん分量を多く書ける。定型は人の脳内のリズムの部分にまで作用するほどの力を持っていて、つまり文章を定型に沿って書くということは思考を定型化させることと同義であり、しかし思考は形を持たずあっちに行ったりこっちに来たり自由に動く物なので、それは感情と言い換えてもいいのだが、だから定型が思考に入り込むと、定型を優先できず、結果的に最初に構想していた形が崩壊してしまう。

 定型の力と思考の流れとを並行して器用に考えることができる人が、定型をうまく扱える人なのではないか、推理小説だったら、書いたことないから何もわからないのでもう書くなって感じだけどとりあえずこの文章を終わらせるためにも思考を続けなくてはいけない。

 探偵モノだったら、名端的が登場して半にを捕まえるというフォーマットが存在するように思える。しかし、よく考えてみると探偵モノとはきっとそんな程度の物ではなくて、もっと広い範囲でもっといろんな探偵がいるのではないか。僕はよく知りもしないことについて範囲を決められるほど特権を持っているわけではない。

 例えば本っていうのが、ハウツー本とかそんな程度のものだと思ってる人がいて、本を読みたいんですけど何を呼んだらいいですか?と素朴に訊くひとがいるとしたら、その人がカフカを読んだときに本っていうのはこんなに広くて、そして自分勝手な物で、考えを狭めているのはもったいないと思うかもしれない。もしくは何も教えてくれない本なんて何の価値もないというかもしれない。どちらにせよ、これはこういう物だと、納得していない定義を使って範囲を狭めてしまうのは勿体無い。だから推理小説について言及するのはやめておくことにしよう。

 そもそも定型とは、特に優れた定型とは、ホースの噴出口が指で狭めることによってより鋭くより圧力を持って水を噴射するように、あえて制限を課すことでより密度の濃い文章を作るために存在しているのかもしれない。つまり定型とは自分に重りを課すようなもので、ようするに制限、縛りプレイのことで、だから定型を使った方が簡単に書けるというのは勘違いなのかもしれない。つまり定型を使いこなせる人というのは修行僧のような修羅の道を歩む人間のこと、或いは達人のような人間のことなのかもしれない。

 定型を使いこなせる人と使いこなせない人の差とは単純に力量の差である、と言えるだろう。定型とは一見自動化のように見えてその実制限であり、それをうまく扱うには定型に熟知し、さらにその制限を上回るだけの技量が必要だ。そういう人を達人と呼ぶ。文章とは違うが、モーツァルトのオペラやシューベルトの歌曲も、ほんとうは達人がやるものだ。簡単だと思われていて、初心者が勉強させられるところも、文章と似ているのかもしれない。決まっているということは人間にとって救いにはならない。僕のようにわがままな人間は定型から離れていく。いずれ実力がつかないと定型の持つ力に太刀打ちできないからだ。優れた定型はそれだけで美しいし、自由に使える人に技術は称賛に値する。

 

<結論期>

 実力のない僕が定型を考えようとすることはおこがましいことで、簡単な文章の書き方を考えるにあたっては、うまく定型を扱う方法に気づいてからじゃないと書けないと思った。そこに気づけただけでもこうして文章を書いた意味はあったはずだと思う。いま最初を読み返すとめちゃくちゃ調子に乗ってて恥ずかしいけどこのまま投稿する。趣旨は果たせなかったけど、達人達に敬意を表して、この一連の文章は終わろうと思う。

 とりあえず、思いつきはだいたい失敗するので、あったことをそのまま書くのがいちばん簡単なんだなって再認識しました。おしまい。