ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

天才とはなにか。

 天才というのは疑問を持ち続ける人、疑問が自然と浮かび続ける人のことを言うのだと思う。

 そう思ったのにはいくつか理由がある。

 行ってる大学柄か僕の周りには数人、天才がいる。普通に生きていて天才と出会う確率自体少ないし、関係してみないと天才かどうかわからないので、数人いるというのはすごいことだ。

 友人だったり、先生だったり、古本屋の店長だったりするのだが、彼らは自然と、自分の歌い方や、ものや関係や社会の作り方、生き方なんかを作りだしていて、つまり彼らは創作者だ。僕は天才とは必ず何かを創り出している人のことだと思う。わかりやすい天才だとイチローは自分の生活サイクルや筋肉バランスや練習方法を作り出していたように見えるし、羽生善治は数ある可能性の中から自分の勝利への道を見いだしていた。(将棋は天才の世界だ。将棋のゲーム自体も面白いけれど、天才たちの話(棋士や、周囲のエピソード)を聴くのも面白い。いま風に言うと沼なので、この騒ぎで暇な人は是非始めてみてほしい。メールをくれたら基礎から教えます。)

 天才の毎日はおそらく僕には想像がつかないくらい、創造の連続だと思う。

 創作とは、疑問から起こる。僕はこう言い切ってしまうけれど、これはビジネス書やなんかで体型立てられた「アイデアのつくりかた」というやつでも紹介されている。そういうタイトルの本も出ていたと思う。あらゆる創造の源泉は疑問だ。(ビジネス書の気に食わないところは、疑問という遥かなるものにして崇高な、偉大な創造の萌芽をビジネスという、一種のゲームにのみ適用させて喜んでいるところだ。僕はゲームは好きだけど、ビジネスは普及しすぎているし感情を一定の乱数くらいにしか思ってない節があるから、のめり込めない。ビジネス的な考え方やビジネス書を読むのはけっこう好きだ。)

 あらゆる創造の源泉は疑問だ、という話だった。疑問が問いになり、それが創造の目的となる。その目的に沿ってもとの疑問や問題を解決する。これを創造と呼ぶ。

 これは僕のオリジナルな考えじゃない。坂口恭平著『独立国家のつくりかた』に書いてあったことをベースに、周りの天才や、本、動画の中の天才たちと触れ合うことで彼らの天才性や作り方を参考にしたり勝手に解釈して勝手に創造を定義した。

 僕の周りの天才は、みんな分からない、と言う。何かにつけて分からないと言う。彼らには普通に、平凡に、平和に回っているこの社会がわからないのだという。

 国分寺の本屋の店長を、僕は勝手に賢者と呼んで心の中で弟子入りしているのだが、彼は小さいときに、「100円」が分からなかったらしい。この手の中にある銀色のまん丸がなぜ100円で、みんな100円だと思えて、物を交換できるのか分からない、そういう疑問を抱えて生きていたらしい。それ以外にもいろんな疑問を持っていて、なぜ名前がついているのか、とか、なぜこう自分は自分で、他の家にいる人は他の人なのだろうか、というような、もう聞いてるだけで自分が分裂してしまいそうな根源的な疑問だ。

 国分寺の賢者は凄まじい知性を備えているけど、流石にそれらが最初からわかったわけではないから、全国を放浪したり山に籠ったり、いろいろな修行をしたらしい。

 本人は修行とは言っていなかったけど僕はそれを修行だと思う。つまり修行とは疑問を解決するためのプロセスであり、疑問がない人がやっても多分あまり意味がない。修行は疑問を解決するのに必要な方策として自分が考えるものだから、苦しくても続けられる。続ける必然性があるからだ。必然性があると人は続けることができるように思える。

 こんな風に、天才は疑問のセンサーが渦状に発達してるから普通だと思ってるものの事もすぐに分からなくなる。でも、その疑問を解決しようとするし、そのプロセスの中で技術や生き方を作り出してしまう。彼らは作品を自分の自由にできるけど、それより疑問の方が本質だと知っているから、作品を人に与えることに抵抗がない。出し惜しみしない。だから天才とは確実に贈与の人である。

 坂口恭平の著作を読むと、だいたいは疑問から始まっている。僕は坂口恭平が大好きだ。千葉雅也も、彼の本は文章の読解ではなく文章を読む中で生まれた疑問について自分で解決していく過程なのだと解釈できる。僕にはそう見える。彼にとってたぶん疑問を解決する手段が文章を書くことだったのだろう。だから彼にとって文章は修行なのだと思った。勝手に言うと失礼かもしれないけどね。

 そしてこの考えをまとめるのに決定的な最後の一撃をくれたのが内田百閒だ。僕はこれを彼の『第一阿房列車』の一節を読んで動かされたように書き始めた。最初の方で、動いてる時と止まっている時の汽車の違いについて国鉄の職員に疑問を投げかける場面だ。

 『「椰子さん、僕はいつも汽車に乗る時、そう思うのですがね、汽車が走っている時は、つまり、機みがついて走り続けているなら、それで走って行けるような気がするのだが、こうして停まって、静まり返っているこれだけの図体の物を、発車の合図を受けたら動かし出すと云う、その最初の力は人間業ではないと思う」

「先生は人が引っ張っていく様な事を云われますけど」

「誰が引っ張っても同じ事なので、気になるのは、動いてる汽車と停まっている汽車とは丸で別ものだと云う事です。その別々なものを一つの汽車で間に合わせると云う点が六ずかしい」』(内田百閒著 『第一阿房列車』福武文庫)

 昔の人なので漢字とか読みづらいけれどとても面白い本だ。六ずかしいと書いてむずかしいと読むんだって僕は初めて知った。ろくずかしいろくずかしいと呼んでいて、何かおかしいと疑問に思ってついに気づいた。この疑問と気づきも創造だ。この本は僕に疑問をくれて、それを解決した時僕の中にひとつ新しいものが生まれている。だからこの本は面白い本なのだと言える。

 引用部分は、汽車が動くのは人間業ではないと思う、と当たり前の事を言う内田百閒に(だって汽車は人間の力で動かしてるわけじゃないから)、そりゃそうだと突っ込んだら更なる疑問でもって返された部分だと思う。

 彼の本当の疑問は、動いてる汽車と停まっている汽車ではまったく別物である、と言う前提の上に成り立つらしい。内田百閒にとっては動いてるのと停まっているのは別物に見えたらしい。まあ確かに、動いてる状態と停まっている状態は明確に違うし、言葉の上で同じものだと分かってはいるけど、同じものではない、という理屈はわかる気がする。わかる気がするけど、なにその疑問??とも思う。

 別物であるはずの二つの汽車が、どうして一つの汽車として扱うことができるのか、と言うのが内田百閒の疑問だろう。こう言う疑問を自然と思いつく、体のうちから出てくる、そう言う疑問を見つける目を、聴ける耳を、感じられる身体を持っている、だから彼は天才なのだと思う。

 別物であるはずの二つの状態の物をなぜ一つの言葉で扱えるのか、というのはもう言葉の在り方そのものに関わる問題だ。

 きのう、国分寺の賢者に教えてもらったのだが、言葉とは人間の作ったものではないらしい。それを聞いて僕はびっくりしてしまった。だって、言葉は伝達するためにあるんじゃないんですか?と思ったから聞いてみた。

 すると、人間は言葉を作ったり、支配しているような気がしてるけど、言葉の世界は人間の世界とはあきらかに別のところにあって、人間がそれに何故か触れてしまってこんな訳の分からないことになってるんだ、と言われた。言葉と生物が出会って何かをやってるのなんて一瞬の夢のようなものだと言っていて、それはすごくステキだと思った。

 こんな風に天才や賢者はいろいろな事を知っている。それは疑問を持つからだ。だから僕の疑問をちゃんと感じられるようにして、きちんと言語化して、それを解決する方向に生きていこうと思う。そうすればたぶん、社会とか世界にとって少しでも良いことができるような気がするから。長々と書いてしまった。とても面白い話だと思う。呼んでくれてありがとう。幸せ多き生活を祈っています。