ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

僕の伝えたいメッセージは、あなたの生存のために僕が存在しているということ、そしてあなたの存在が僕の存在にとっても必要不可欠であるということだ。

 生きるとはいったい何か、幸せとはいったい何か、考えたことがあるだろうか?

 辞書的な意味じゃなくて、哲学とかでもなく、生物学でもなく、いや、もちろんそれらの知識を使ってもいいんだけど、とにかく人に言われた言葉じゃなく、本当に考えたことがあるのか、僕は自分に対して疑問を持った。

 それは今、僕が大学四年生になる、この一年でモラトリアムが終了し、どうにか社会と関わりを持って生きて行かなきゃいけないらしいから考えようという気になってるだけなのかもしれない。

 僕は若い。何もわからない。親の庇護の下、おそらく社会の庇護の下暮らすことができている。東日本大震災のあとに「生かされている命に感謝して」という言葉が流行った。あれはいったいどういう意味なのだろうか?生かされている、誰に?僕は生かされているのかもしれない。他人のおかげで生きることができている、という意味だろうか。それはそうだ。

 坂口恭平という人がいる。早稲田大学建築学科を卒業し、路上生活者の家を撮影した写真集を卒業論文として提出し、後に「0円ハウス」というタイトルで出版したことからキャリアを始めている、簡単にいえばマルチなアーティストだ。

 坂口恭平は音楽を作ったり、ちっちゃい家を作って車輪をつけて、車両扱いの家を建てたり(モバイルハウスという、可愛らしい家が検索すると出てくる。)、ベストセラーにもなった新書を書いたり、絵を描いたり、とにかくいろいろなことをしている。

 彼のいちばん有名な著作『独立国家のつくりかた』という本にこんな一節がある。

 隅田川に住む一人の路上生活者のエピソードだ。

 『ふたたび、路上歴十二年になる隅田川に住む鈴木さんを取り上げてみよう。

 彼にとって「生きる」とは、「十分な食事をし、楽しい友人と過ごし、毎日酒を飲み、歌いたい時に歌う」ことである。こうして彼はゼロから自分の「生」を組み立て始めた。』

(出典元:坂口恭平著『独立国家のつくりかた』講談社現代新書)

 


 感動的な場面だ。路上生活者に公的な支援はほとんどない。複雑で匿名化された社会システムは結局、命に直結する段階まで至った人を助けるために動くものではない。

 政治や行政というのは命を助けてくれる機関ではないのだ。所有とともに始まった政治は、基本原理として財産の継承を目的として動いている。安定した構造を維持して、所有したものを自分の息子とか、親族とかに分け与えるためのものだ。それが広くなったのが今の大規模定住社会だが、根本は変わらない。命を助けるのは政治ではなく人同士のつながりだった。

 逆にいえば、社会から見捨てられ、公的な支援を一切受けられない身になったとしても、人同士のつながりがあれば生きていけるということだ。人同士のつながりとは、法律とか、知識とか、食べ残しとか、ゴミとか本とか土地とかそういうのも含まれる。

 だから、「生かされている」というのは間違いではないのかもしれない。過去や未来そして現在を生きる様々な人間とのつながりがあって初めて僕たちは生き延びることができる。それは普段はあまり見えないから、親のおかげで生きているとか、誰のおかげで食えてるんだ、くらいの狭い認識になるけど、本当は今まで生きていた人全てが、そしてこれから生きていく人全てが自分の生と関わっていて、だから他人に対して優しくしたり、一見自分とは関係ないように見える権利を守るのは自分のためになり、合理的だ。

 最初の問いに戻ろう。生きるとか、幸せとかって一体何なのだろう。

 就職してお金を稼いで物を買って生きる。結婚する幸せ、フリーランスクラウドファウンディングを成功させてお金を得て生きる。ジェンダーロールに縛られず、家族を継ぐなんてことを忘れる幸せ。規範に縛られる生き方、規範に縛られない生き方。僕には、これらは全て同じことの表裏に見える。

 同じ社会の上で、同じ世界の上でどちらの価値観に振れるか、ということでしかないような。僕はまだ21歳で何もわかってない。生意気な性格は自覚している。でも何か、平面的な世界でパワーバランスのどちらかを取らなければ生きて行けないかのような言い方をされているような感覚を覚える。

 しかし本当はそうではないはずだ。生きるとは、生き延びることで、それは自己目的的に生きるということで、死が生きている僕らにとって絶対的であるならば生もまた絶対的で、死因が多様にあるように、生因も多様にある気がする。自分が何をいっているかよくわかっていない。

 とにかく僕が言いたいのはたぶん、生きるとか、幸せとか、自分の生存に必要な概念を再定義し直すことが大事なのではないかという提案だ。

 それも、悩んで考えるのではなく、文句を言うのでもなく、生きるという実践の中で、生き延びるヒリヒリした感覚の中で、自分がどう他人と関わっていけるのかを考える。他人と関わることが生き延びることに確実につながると僕は思っている。

 だからこうしてあなたが読んでいることが奇跡的な出会いで、あなたの生存のために僕はいるのだと何回でも伝えたい。分からないことがあったら話しかけてほしい。一緒に生きること、生き延びることについて考えたり実践したりしてみるから。

 僕はこれから人と出会うためにどうしたらいいかを行動しながら考えていくつもりだ。僕の伝えたいメッセージは、あなたの生存のために僕が存在しているということ、そしてあなたの存在が僕の存在にとっても必要不可欠であるということだ。そこから新たな相互の生が生まれてくると、確信している。