ゲージュツ的しつけ

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『100日後に死ぬワニ』が示したSNS時代の新たな定型

 数日前、ワニが死んだ。

 死後当日に映像になったりカフェになったりで炎上して、大変みたいだ。生前の100日間は毎日リツイートで回ってきたし、今でも、良くも悪くも話題を呼んでいる。

 僕は今までワニについて意図的に言及しないようにしていた。感じたことがなかったわけではないが、中途半端に話すのは違うと思ったからだ。

ただ、僕は『100日後に死ぬワニ』は物語として単純に凄いと思っている。ワニの発想がいかに優れているかは僕よりあなたの方が詳しいだろう。頭のいい人がたくさんワニ論を書いているし、あなたも色々考えただろうから。

 今日、僕が話したいのはギミックの解説でも考察でもない。炎上の仕組みについてでもない。ワニと関わる中で考えた、物語のフレームとディティールのバランスについて、そして定型についてだ。

 いつだったか、友人と創作物のフレームとディティールについて話した。

 フレームとは世界観や場所や設定、話の大筋などを指し、ディティールとは会話の中身やちょっとした言い回し、天気や、登場人物の感情、細かな情景などを指す。大枠と細部とか、マクロとミクロなどと言い換えてもいい。

 僕と友人の結論はざっくり言えばフレームとディティールは相補的である、って話だった。ディティールが崩れればフレームも崩れるし、フレームが変わればディティールも変わる。

 例えば、南国の島を舞台にした作品に、不用意に流氷を登場させるのは難しいし、南国の島で展開していた物語の舞台をアラスカに変更しようとしたら、そうとう細部を書き換えなきゃつじつまが合わない。

 もちろん南国の島と流氷の距離を利用して面白い物語を作ることだってできるけど、ギャップが大きい二つなだけに同時に取り扱う際には厳重な注意か混沌を受け入れる覚悟が必要だ。

 唐突だけど自分語りをするね。僕はずっとディティールありきで色々書いてきた。ディティールこそが本質で、ディティールを連ねることで世界が立ち上がると思ってきたし、今でも本気で信じてる。

 例えばカフカの小説を読めば、そこにあるのは確固たる世界観ではなく、旅人がどうしたとか、父親が子供にどうしたとか、木がどういう風に生えているとかそういう細かなディティールだ。ディティールが積み重なり、世界が広がっている。

 だから、カフカの小説はあらすじを読んでもよくわからないし、ネタバレをされたところでどうってことない。本質は話の筋ではなく地の文とか、奇妙に思える会話とかにあるから。しかしそのディティールは単体で切り取ると意味不明だったり、話の筋からするとどうでもいいものが多い。ディティールは力強い個性を生むけど、単体で作品を規定するほどの大きな力は発揮しない。

 逆の考え方もあるだろう。フレームが本質であり、フレームありきでディティールが決まるという考えだ。

 学校を舞台にしたら小道具は黒板消しや学習机になるだろうし、異世界転生というジャンルを基に世界観を構築すれば、ある程度のストーリーや設定は勝手に決まってくる。

 フレームは単体で多くのディティールを規定してしまうほどのパワーがある。単体のディティールが世界にとってどうでもいいことだとしたら、フレームはその世界の最重要事項だ。

 100日後に死ぬワニを100日間見てきて、この作品のすごいところ(恐ろしいところ)は、このフレームとディティールのバランスにあるのではないかと思った。

 まず、僕の見解を話すと100日後に死ぬワニの本質はディティールにある。はっきり言って100日後に死ぬワニの100日間は、個別の、取るに足らない細部の積み重なりだ。それは素晴らしいことだ。裏を返せば緻密ということだから。

 ワニくんの性格とか、友達との微妙な感じとか、生活感とかあの細やかなワニくん像やワニの世界観は100日間を細部の積み重ねに費やすことで成立している。

 僕たちは100日間毎日積み重なる細部を見て、彼らの人物像に奥行きを感じ、どんどん好きになっていった。

 あえて言えば僕ら100万人は、実質的には取るに足らない男たちの日常を、100日間見続けていたことになる。

 しかし僕らは退屈することはなかった。それはこの漫画が内容よりもコンセプトが重視される漫画だったから、という説明もできる。『100日後に死ぬワニ』はイベント漫画として優れていた(そしてイベントの終わらせ方が悪く、炎上した。)という記事も読んだ。

https://t.co/6lUT9WBkkQ?amp=1

 ワニの物語ではなくお祭りの雰囲気だけを楽しんだ人もいれば、早く死を願った人も、それぞれのエピソードが積み重なるたびに胸が締め付けられる思いがした人もいるだろう。いずれにせよ、続きが気になった人は多いと思う。何故だろうか?それは僕らが結末を知っていたからだ。

 100日後に死ぬワニは話の大筋、結末というフレームを一番わかりやすいタイトルという形で示した。どれだけありふれていて普通の日常でも、死という結末が明確に提示されている以上、特別なものとして受け取らざるをえない。

 普通の物語なら結末は一番最後に温存される。しかしここで温存されていたのは死因とか死に方という細部であり、話の筋ではない。筋はもう決まっているのだから。

 ここにフレームの強力なパワーが現れている。では、ワニの本質はフレームにあるということなのだろうか?しかし、ディティールが本質であると言ったばかりで、矛盾してしまう。

 この矛盾は、最後には解決する。

 ここまで書いて、自分は定型について書いているのだと自覚した。

 物語にはいくつも定型がある。定型とは何か?物語の約束事のことだ。

 例えば推理小説であれば、事件が起こったら必ず犯人がいて名探偵がトリックを見破り犯人を捕まえる、という約束事がある。話の筋はこの約束事に沿ってすでに決まっている。

 定型に沿って作られた作品は大筋が決まっている分細部の自由度が高く、細部で勝負するものだ。細部の積み重ねが作品の魅力になり、登場人物の魅力になる。だから世界中で魅力的な名探偵が何人も存在する。

  100日後に死ぬ、というのは新たな定型だ。定型からフレームを構築することで自由になった余白に緻密なディティールを書き込む、というのが100日後に死ぬワニの構造だろう。いずれ、確実に死ぬという約束事があるから観客はワニの将来が気になる。様々な憶測や意見が飛び交う。

 民主主義社会において法が自由を担保するように、広がりを持って強固に構築されたフレームはディティールの自由を生む。逆に、緻密なディティールが積み重なるにつれてフレームは広く、強固になる。

 緻密なディティールと広がりのあるフレームはどちらが欠けても成立しない。つまり、フレームとディティールはどちらが本質ということではなく、相補的に本質を担っているのだ。

 その両方が理想的なバランスで備わった作品を時に僕らは優れた作品と呼ぶのだろう。優れた作品の構造はいずれ定型となって世の中に残る。

 100日後に死ぬワニはSNS時代における新たな定型を作り出した。パロディ作品の多さが証拠を示している。この作品は単に発想の勝利というだけではなく、フレームとディティールのバランスという問いに、新たな一つの答えを示した優れた物語でもあるのではないだろうか。

 賛否両論あるというか、めちゃくちゃ叩かれてるけど、この文章で言いたいのは作品倫理についてではない。物語の構造、発想は素晴らしいと思ってる。

 長くなってしまったが、ワニくんのご冥福を祈りつつ、このあたりで文章を閉じようと思う。作者、作品に敬意を評して。最後まで読んでくれたあなたに感謝を込めて。