ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

人生を捧げる

 もう俺は何も訴えず、何も成長せず、何も獲得することなく、ただこれまで作られたものを消費して生きているんだか死んでいるんだかわからないような状態でただたゆたっていたいと思う時がある。

 空転している世の中で心配なことが多すぎる。俺は死なないだろうかと、結局はそういうことなのかもしれない。俺の心配事なんて、結局そこに集中するのかもしれない。

 例えばいま、俺が手にしているもの、ことは本当は俺のものじゃないとかそういう思想に身を委ねれば、少しは楽になるかもしれない。どんなものだって、それは技術や、考え方や学力みたいな目に見えないものですら、自分が獲得したのではなく与えられらにすぎないのだ、という考え。

そう考えるのは、ちょっと辛い。プライドも何も成立しなくなるからかもしれない。自分がいまここに立っている理由とかそういうものが見えづらくなるからかもしれない。存在論的な問題。つまりアイデンティティの問題。

 でもあらゆるものやことを自分から切り離すことで自分はどこまでも軽くなれる。とても無責任な発想ではあるけど。つまりは赤児に戻りたいということだ。そのまま干からびて死ぬことを許容できないならやっぱり俺にはべったりとへばりついた何か技術とか思考様式とか言語とかがあって、それから逃げられないということだ。それらの恩恵を受けるのであれば、引き受けなくてはいけない。

 

 

 

 

 生を投げ出す人間はいずれ死も投げ出すだろう。 

 命を何かに捧げるものは、命のあとにある物も何かに捧げなくてはいけなくなるだろう。

 人生を捧げる、内発的な動機でないものに人生を捧げる、そんな気持ちを良しとすることは、死を誰かに委ねることと同じだ。自分の納得のいく死に場所を自分で見つけることができるまでは生きているべきだ。内発的に自らが誰かに奉仕することを望むなら、それは誰にも止められないけれど。

 フクシマ50に対する意見だ。何かに命を捧げること、何かの犠牲になることをよしとする風潮を作ってはいけない。乱暴な意見かもしれないが、命はあくまでも生きるためにあり死ぬためにはない。

 つまり、国のために死んだ、国民を守って死んだ、ことはその亡くなった方への感謝を忘れるべきではないが同時に、亡くなったことへの責任が国民全員にあるということだ。そしてその代表である国は死者を出したことを悔やまなくてはいけない。

 生者の側からすれば、死者が出ることは悔やむべきことだ。英雄の誕生を喜ぶ時じゃない。巻き込まれ死んでいく話を美談にしたら、内発的ではない死を肯定することになる。そうすれば、内発的でない生を肯定することにもなる。生の肯定が芸術なら、死の肯定もまた芸術だろうと思う。思うが、実際の死と芸術の死は違う。実際の死は、それも本人の思惑とは違った、巻き込まれ型の死は芸術的ではないように思える。芸術に昇華することはできても、やはり死そのものは悲しい。