ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

やがて消えゆく僕らのために

 文章の市場価値を上げるために死とセックスについてのトピックスを導入することに決めました。これからは義と愛と生命に生きる漢として付き合っていただけたら幸いです。

 僕らが死んでいくことは確かなので、生命があることは確かだ。生命だけが絶対的で、他のものは生命を中心に相対的に決まっていく。例えば地位とか、欲望とか。

 そんな感じの文章をいつか書いた。

 

 生きているのと死んでいるにはもはや状態の違いでしかないのと同じように自分の存在には他人が必要だ。生者が生者としているためには死者の存在が必要だ。存在の問題、生存の問題は相対性の問題で自分と他人を比べることによって生じる。

 この文章があなたを必要としているように、生存は他者を必要としている。

 


 用意された悲しみを素朴に悲しむのと、用意された怒りを素朴に怒るのは同じことだ。

 


僕らは手続的官僚主義の中で生きている。手続き的官僚主義とは今勝手に作った言葉で、意味は手続的な官僚主義ということ。

 まず、あらゆる格差あらゆる不公平は個人の領域の問題ではない。つまり努力とかがんばりとかによって解消されるものではない。何故なら家庭内あるいは個人の格差や生得的な得手不得手があるからだ。スタートラインが全員一緒だと思うのは幻想だ。東大合格者の半数は年収950万円以上の家庭の子供だ。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/71149?page=6

 

 

 

世の中では泣ける物語や感動的なストーリーが良くも悪くも話題になっています。

 泣けるコンテンツの需要は高まる一方で、ドラえもんの映画が泣けることを全面に打ち出した広告を展開していた時期もありました。

 感動コンテンツの需要は過去から大きく、80年代には『一杯のかけそば』という話が「誰でも泣ける話」として広く受け入れられた一方で「涙のファシズム」とまで呼ばれて痛烈に批判されたことがあったらしいです。

 経緯を詳しくまとめている面白い記事もあるので興味がある方は是非。

https://www.excite.co.jp/news/article-amp/E1496826742841/?__twitter_impression=true

 


 世の中が地獄すぎて、僕はけっこう絶望している。ツイッターが地獄のかまどなのはもはや自明で、CEOも大きな一つのツイッターではなく分散型SNSを志向しているみたいだ。早くそうなって欲しい。

https://lite.blogos.com/article/443594/?axis=&p=2

 いずれにせよ、感動的で、喚起される感情や思考が一元的なストーリーに対して僕は懐疑的な目を向けている。

 今の読者は「ハズレ」を避けているから、タイトルである程度予測のつくものを好む、という話を見た。

 しかし文章にしろコンテンツにしろ、予測ができない過剰な部分が面白いのだと思う。僕が言うどうでもいいこと、とはそういうことだ。

 同じものを見た時に 、100人いたら100通りの受け取り方や感じ方があるはずだ。それは例えどんなに感動的なストーリーだったとしても、感動する人間とそうでない人間がいるように。

 しかし今の人々は同じ感情を共有できるのを好むのだと言う。しかしそれは人間の多義性の否定につながるのではないか。

 見ていてスカッとできる話、泣ける話、悲しめる話、怒れる話....用意された感情をそのまま素朴に感じて、それで満足しているように見える。

 公開処刑の楽しさと一緒だ。その人間の内面に興味が湧くのは、その人間が今死ぬからだ。需要と供給がピッタリ合う瞬間に、喜びなどないのではないか。

 デリダはそれを脱却するために誤配という概念を考えたのかな、とか思った。

 偶発的に、求めていないものが届く。誤配の偶発性。それは、コントロールできない人生やコントロールできない自分を取り戻すために必要なのではないか。

 生命はレディメイドではない。良い大学に入るのが幸せの全てではないと、口で言いながら、人間性や個性が大事だと言いながら実際は他者の偶然性や多義性に耐えられない。

 これらは全て愚痴だ。僕は誰とも知らないみんなと話題を共有するよりも、あなたと一対一で話がしたい。

 僕らはやがて死んでいく。それ以外のことは決まっていない。