ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

二十年前に九〇年代があるみたいな気がしてる。

二十年前というと二〇〇〇年代なのだが、僕の頭で二十年前という言葉と結びついている映像は『新世紀エヴァンゲリヲン』のオープニングで、それは九十年代のアニメだから僕には二〇〇〇年代の記憶というものがほとんどない。

 二〇一〇年代は震災とともに始まって、その頃僕は小学校六年生だった。地震は、小学校で卒業式の練習をしてる時に来た。斜に構えた小学生だったから、不安はなかった。騒いでる女子がうるさかった。僕は当時モテなかった。友達が、火力発電所が燃えたらヤバいよ!と話しかけてきて、ラジオから原子力発電所が臨界を迎えようとしています。という声がした。担任の教師は、ラジオを置いたまま職員室に出かけていたから。

 二〇一〇年代の記憶は少しある。震災の後、中学校に入ったこと。バンプオブチキンラッドウィンプスが流行っていたこと。プログラミングを習ってすぐ辞めたこと。そんなことだ。壁ドンという言葉が流行って、もとの意味との違いに(かつては隣の家に抗議を表明するために壁を殴るという意味だったと記憶している。)怒りに似た気持ちを思った。自分の持っていたおもちゃの色を勝手に塗り替えられたような気持ちがしたんだと思う。

 つまりその時の僕にとってはネットスラングがおもちゃだったし、僕の二〇〇〇年代はインターネットの中にあったのだろうと思う。インターネットの中の流行とテレビで流れるものには当時から差があったから。それは時間的にも、質的にも差があったから、僕が『エヴァ』を思い出すのは何も間違ったことじゃないのだと思う。

 

 

 

 十八時に学校に着くことができた。着けた、と書けば(思えば)五文字の節約になるけど、その五文字のあるとなしでとでは自分の世界の見え方とか、変な話だがそういうものが(色とか)変わってしまいそうな予感を感じた。

 単純に、一回の思考あたり五文字の節約ができれば積もり積もってそうとうな時間の節約になり、死ぬまでにできる思考の数が1.3倍くらい増えるかもしれない。1.3倍にしたところでロクな結果が出るとも思えないけれど。こと思考においては、人間は量より質であると僕はハッキリ言える。

 五文字の節約に踏み切れば、鋭角的で、効率的で、少し杓子定規だが明快な、視界で世界を見ることができるかも。ここも、見られる、にすれば。

 ここまで書いて、それは理系の(たぶん理系に限らずだが)論文の書き方に似ているなと思った。明快で、端的で、意味が確実に伝わる書き方。自分の脳内のイメージや思考に再現性のある書き方。

 文章の良さとは、簡潔であり情報量が多いこと、を基準とする。

 としっかり定義されているからかもしれない。この場合は。自分は一度ルールに即した、厳格な文章を書いてみた方がいいと、思っている。