ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

現実とか過去とかと、地続きの私は存在するのか

 事実に即したことを語りたくないのだと思った。事実は世界にたくさんある。いつか死ぬとか、お腹空いてるときにご飯を食べると美味しいとか、一日十二時間以上寝ると鬱になるとか。僕らは事実に取り囲まれ苛まれている。もう十分なくらいに。

 だから僕らを取り巻く事実にはもうウンザリしていて、せめて文章の上では全く事実とは異なることを書いていたいのかもしれない。あなたという読者を意識することで、自分の言葉に対する責任が生まれる気もする。嘘を書いているのに責任をどうとればいいのだろうとか考えて、僕はきっと今日一日あんまり文章が書けなかったんだろう。

 とはいえフェイクニュースとかを信じるとかそういうことではない。ましてや嘘を流布させるつもりもない。そのための言い訳が、もしくは防護策が、これはフィクションである、と明記することだ。映画の冒頭とかで必ずある、実在の地名、団体、人物等とは関係がありません。ってやつだ。

 理想論かもしれないけど、そんなこと書かないでいられるなら書かないでおきたい。記述されたものは全てフィクションなのだから、あの注意書きは必要ないと思うのだけど、記述されたものと現実の世界を混同する人がいるのだろうか。

 そもそも現実とはどこまでが現実なのだろうか。テレビの向こう側をどうしても、じぶんと地続きだとは思えない。あなたはどうですか?

 同じように、過去の自分と今の自分が地続きだと思えない。過去の自分は他者であり、過去自体が他者なのだ。

 過去に自分が感じていた現実は匂いや、音や、見えるものすべてで構成されていて、自分がいま思い出す過去はそれらの極々一部分にすぎない。その取捨選択は、無意識に行われる。あの時の、あの感じ、その一瞬の中で最も強烈なものを探し続けている。あの時をあの感じだけに切り取る加工をした時点で、過去は現実ではなく自分の創作になってしまう。

 過去とか、現実とか本当はじぶんと地続きかどうかわからないものの中で、事実とは一体何なのだろう。人が数人集まれば、同じ事件も歪んでくる。こうした過去の不確定さの中で、未来の不確定さの中で、現実は揺れ続ける。揺れ続けた現実に、文章でどう立ち向かえばいいのだろうかと思っている。あなたとわたしがこうして交わることが、僕にはとても奇妙なことのように思える。

 

 昨日、といっても今朝?あなたがどうとかずっと言っていたから、何かを書こうとするときに語りかけるような文章になってしまう癖が抜けなくて、とりあえず手紙のように今この文章を書いています。

 今は3/16の12:54を迎えたところで、電車の中にいます。東京は晴れ。学校に向かうまでの間に東京を南から北に横断する形のルートを取るから、少なくとも南から北の間満遍なく晴れています。

 あなたがこれを読んでいることの不思議、そう書くと、まるで絵本の中の言葉のような、もしくは道徳の授業で書かされる手紙みたいな、妙なつながりを意識してしまいます。でも、確かな不思議。

 わたしの家は宗教的な家だったので、母が毎朝先祖を供養してお祝詞を口にしています。月に一回か二回祖母がやってきて、二人で神棚を拝んで先祖を供養しています。この習慣に気づいたのが五歳くらいの時なので大体十五年くらいは毎日見て、耳にしています。

 そんな家庭に生まれたものですから因縁、とか、繋がり、みたいなものに少し敏感で、そもそも宗教というのがある共同体の、精神的なつながりを物理的な距離から広げるためにあった、とどこかで聞いたことがあるのですが、宗教のもともと持っている力としてつながりが強化されてしまうものなので、我が親族一同は同じ血が流れているばかりか同じ宗教で繋がっている二重、三重の接続を持った、強い結束を持った一家なので結束がうっとおしい時は、もちろん多々あります。