ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

百日の残りの五十日の一日目

一日の中である程度の時間を区切って、退屈するまで文章を書くことにすれば必ず一日に一つ以上のテキストを書くことができる。推敲はほとんどしないでいい。そうやって残りの五十日を切り抜けようと思った。

 切り抜けるという言葉が出てきたのに自分で驚いた。ぼくは自分で勝手に設定した百日ブログを続けることをなにか、人生の上での(それも若い時分にこなすべき)重要でそれだけに重苦しく心に残る課題だと考えてるみたいだ。 しかも正確に言えば続けるのは五十日ずつで、その間に百日くらい間を開けているからもはや最初の目標はどこかで空中に溶けてるみたいな感じなのだけど、僕はこの百とか五十とかいう数字にバカみたいだなと思いつつ、囚われている。

 百、100としよう。100という数字がぼくは好きだ。わかりやすい。小学校一年生の時、世界には100個しか数字がないと思っていた。最大と言えば100だし、100がきたら終わり。なんてシンプルな世界理解だろうといまでは思うけど、その誤解があったって世界はしっかり回っていたし、ぼくは生きていた。人間が生きていくのに100以上は必要ない。本当は数字自体必要ない。

 アフリカのとある部族は20以上の数字を持たないが、ある程度の文明と共同社会を築いているらしい。中学生の時に何かで読んだ。この記憶だって正しいかわからないがここで一つのエピソードを思い出した(思いついた)ことが大事なのだと思う。僕の頭は何かを信じ込むことが得意だから、事実がどうであったかよりも今この場で出てきた話が面白いかどうかが大事だ。

 ここからはおそらく作り話なのだが、その民族が20以上の数字を扱う時にどうするのかを教えよう。 例えば村の人間が20人以上になってしまった時。殺すのか?いや違う。生まれた順番に20人数えて、21人目以降(村人は21人目以降を全て現地の言葉で『囲えぬ物』と呼ぶ。20という数字と『囲う』概念に関係があるらしい)の人を村の長老のところ連れて行く。

 長老は『囲えぬ物』を連れて二日歩き、霊媒師の住む場所まで行く。そこは草原だったり森の中だったり高台の上だったりする。この共同体の分布は広い。 霊媒師に連れられて『囲えぬ物』達はさらに半日ほど歩き、霊媒師と協力して家を建てる。生活が安定するまでこの家に霊媒師も一緒に住み、必要があればもとの村から物資を持ってきて支援したりする。

 支援はだいたい二年ほど続く。村の生活が安定すると、霊媒師は自分の本来の住処に帰り、『囲えぬ物』達は20人になるまで村を発展させていくことになる。部族はこうして版図を広げて行く。

 20位上の数字と、それを超えた者の未来を知っているのはそれぞれの村の長老と村から遠く離れた場所に住む霊媒師だけである。

 長老と霊媒師のこなす役割は20という数字を司ることであり、20は彼らの世界の枠を示している。20以上は彼らの自我とか存在を揺るがすものであり、神のようなものとつながっている。だから20以上に触れるものは神聖であり、敬われる。霊媒師や長老は敬意を集め、彼らは20以上の世界、人間を超えた世界と交信しながら生きて行く。

 この部族、現実に存在するかもしれないし、少なくともこのテキスト上では存在している部族における20は、僕らでいうところの言語によく似ている。

 言語の外に出る行為、例えば無礼講とか、サンバとかそれまで言語の中で決められていたある一定のルールから逸脱したり、ひっくり返る営みは祝祭とされ、神の領域に属する行為だ。

 僕らはふだん言語を使って共通の理解を得たり、伝えたりする。それは言語や、言語によって表彰することで世界のそれぞれの事柄を交換しているとも言える。交換と贈与については宮台真司さんとかが丁寧にわかりやすく説明してるから僕がわざわざいう必要はない。

 祝祭が好きなんだ。百日続けることは祝祭的だ。僕にとって100は祝祭的だ。部族の者たちにとって、20が神秘的なように。 とりあえず残りの五十日を続けようと思った。

 これは朝の6:43に書いている。眠れない夜を過ごした。気づけばベッドの上で六時間過ごしている。意識を保ちながら6時間、本当か?という気持ち。そんなに長い時間を過ごした感じがしない。ふしぎ。おやすみなさい。