ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

親族ハラスメントと、保育における内部

 親族という共同体の中ではある程度のハラスメントなら許されてしまう。何を、どこまでハラスメントとして扱うかは難しいけれど。

 進路のことや将来のことについてとやかく言われる。鬱陶しいと思ってしまう。僕は何かになりたいわけではなく、ただ歌ったり書いたりしていたいだけだ。

 周囲は何か形ある、語れる、今ある言葉で扱える職業を目指せと言う。だからかえって解釈不可能な、意味不明な職業でいたいと思った。たぶんこれは僕が若いから、そして厨二病的な、反抗期的な感覚を持ち続けているからだろうと思う。そのことを否定的に捉えないようにしている。

 山内朋樹という美術の批評家が、ツイッターで「保育者は、人ひとりを育てるために狂うのだ」と言っていた。https://twitter.com/yamauchitomoki/status/1212977574030168066?s=21ブラックボックスとしての赤子と接する中で、自分の欲望が他者の欲望に転換してしまう。子育てにはそういう構造がある、という話だ。

 この話題がやけに印象に残った。不気味なもの、理解不能なものへ惹きつけられる感覚の根源的な部分と繋がっているのではないかと思ったからだ。

 哲学者の千葉雅也は「人の行為にはしばしば大した理由もない偶然のことがある/偶然性を認めると、他人が理解の外部に、つまり人間という範疇の外部に出てしまう」から「他人の自律性を認めること/つまり自分の物語理解へ他人を包摂するのを諦めること」をしたくないのだと言う。

https://twitter.com/masayachiba/status/1212557469546766337?s=21

https://twitter.com/masayachiba/status/1212558721995247617?s=21

 山内朋樹と千葉雅也のツイートは繋がっている。物語や、因果関係を理解できない、つまり意味が理解できない赤子の行動の解釈に時間を費やす保育者は、次第に無意味なものを、自分の意味の世界の中に取り込むことでコミュニケーションを成立させるという一種の「型」を覚えるのだと思う。それは元は他者の欲望を自分の欲望とすることから始まるのだが、無意味な行動を自分の意味の世界に取り込み解釈するそのプロセスの中で逆に、自分の欲望が他者の欲望になる、という逆転現象を生むのだと思った。

 つまり完全にコミュニケーション不可能な存在としての赤子と接することにより、余計に自分の意味世界に潜り込む。完全な外部とのコミュニケーションにより内部に潜り込み、ある種保守的になっていく...ということがあるのかもしれない。子育てをしたことがないから、全て想像だけど。もし子育て中の方がいたらごめんなさい。皆様を中傷するような意図はないことをここに記しておきます。

 今日は時間の進み方がやけに早い。こんな風に親戚の集まりのことを思い出しながら一日を過ごしていた。