ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

オーガズムと死。規範と逸脱。

ルールを破るのは気持ちいい。それはたぶん、自分を破壊することにつながるからだ。

 自分を破壊することと、欲望や快楽は繋がっている。薄々気づいてるのだけれど、僕は死に魅了されている。それは熱帯夜みたいに張り付いてくるこの現実との対決や、現実からの逃避として、だけではない。死に近づくこと、自分が破壊されること、モノ化していくことが純粋に快楽として現れてくる時がある。その瞬間はきっとマゾヒズム的な快楽なのだろうとも思う。

 文章には根本的に逸脱に向かう磁場のようなものが存在していて、文章の中では人はよく死ぬしドラッグは蔓延している。放っておくとすぐに悲劇の方に向かってしまう。ギリシャで生まれた最古の文学も必ず悲劇だった。日々の現実が生を志向するものであるのと逆の方向の力が働いていて、虚構は死に向かっていく。

 エヴァンゲリヲン渚カヲルが微笑みながら話していたように、生と死は同価値である。臨死体験をした人間はよくそう語るらしい。であるならば、生を志向する現実と死に向かう虚構は同価値だということだ。虚構は死に向かうから、根本的に暴力性を孕んでいる。表現されたものは原理的に他者を死に向かわせる。それは虚構の中での死、ヴァーチャルな死、言い換えれば考え方の死でもあるのだが、その暴力性を僕は肯定したい。その暴力性だって、すぐに規範化されてしまうのだから。

 ウィリアム・バロウズがジャンキーという小説を書いた時、そこにあったのは逸脱と自由だった。ジャンキーたちの生活模様、ジャンキー的言語は規範にヒビを入れた。その瞬間だけは。しかしその後すぐにドラッグが文学的なテーマとして扱えるものだと知れ渡ると、いつのまにかドラッグは逸脱の象徴となり、ドラッグを描くのが文学的だ、という倒錯を起こす。この倒錯はつまり逸脱として始まった運動がいつのまにか規範化されてしまうということだ。逸脱の瞬間に感じた自由は消えてしまう。自由を得るためには、逸脱し続けなくてはいけない。逃げ続けなくてはいけない。現実の生は規範を生まずにはいられないのだと思う。生は規範を生むが、規範から離れる瞬間に、つまり現実から華麗に逃走し虚構の中で死を迎える瞬間に快感が生まれる。オーガズムのことをフランス語では「小さな死」と言うそうだ。虚構の世界なら、何度でも死ねる。

 性癖もあるのだろうけど、死ぬ、死ぬ〜〜って言いながらスレスレのところで苦しんでるときが一番気持ち良くて、痛みも苦しみもないっていうのは健全だけど気持ち良くはない。そしてこの自己破壊の欲望をどこかで有限化する、ほんとに死ぬからやめよう、という瞬間がある。この瞬間に何かがあると思っている。現実による去勢とでも言うべき何かが。

 現実の苦しみと、死に向かう苦しみでは同じ苦しみでも質が違う。現実の苦しみは死を否定するが故の苦しみ、つまり生き続けなさいと言う苦しみであり、それは気持ちよくなるな、危ないからやめとけ、みたいな理屈に変わっていく。ような気がする。まとまらない、実感のメモに過ぎないけど。