ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

どうぶつ的なけんちく

 塀の上で、何匹もの猫が鳴いている。顔を上げて、まるで遠吠えでもするように。野良猫というのは大体近づくと逃げるのだが彼らは逃げようともしない。俺の両側に大きなコンクリートの塀が立っている。何十匹もの猫が遠吠えを続けている。空には月が浮かんでいるのだろうか。闇だ。

 猫たちのシルエットはぼんやりと闇の中に浮かんでいた。ある猫は尻尾をゆらゆらと揺らしながら、ある猫は前足で頭をかきながら、じっとしていた。俺の目の前には猫たち囲まれた道が一本あるだけだった。塀の向こう側は闇だ。闇と猫は相性がいいようだ。白昼の街中では愛らしいその姿が闇の中ではやけに恐怖をかきたててくる。あのぷにぷにとした肉球の下に隠された鋭い爪や、小さな月のように光るひとみが俺に猫の危険性を思い出させた。彼らは野生動物だし、肉食だ。やけに高い鳴き声が俺を誘っている。

 それでも俺は行かなくてはいけない。この道を通る理由はないが、振り向くことも引き返すこともできない。何十個もの光る瞳に見つめられて俺は茂みの中にでも逃げ出したくなった。街灯はない。真っ暗だ。

 猫の瞳は月のミニチュアだ。人間の目が海のミニチュアであるように。

 だから空を見ても月が出ていないのだ。低く、重く雲がわだかまる。俺は遠くで鳴る雨の音を聞いた。雷が鳴っていた。たれ込める雰囲気に俺は妖怪という言葉を思い出した。昼のビル街では感じることのできない言葉だった。なんとなく懐かしい。雨がすぐそこまで迫っている。

 雨は絨毯のようにこの街を包み、いずれはこの道も覆い隠されてしまう。折り畳み傘はない。眠れない夜の向こう側のように暗いこの道で猫が笑っている。笑っているようなそうでもないような、曖昧な表情で。忘れていたことをいくつも思い出した。辞書の中の言葉のように。滑り台、とか墾田永年私財法とか、そういう言葉だ。そういう言葉はアウトラインプロセッサとかコンテンツとかとは違ったぬるりという質感を感じさせた。この道にもどこかぬるりとした感触を覚える。

 雨が近づいてきた。サラサラと音を立てている。俺はもうすぐ歩き出すだろう。雨から逃げる、立派な理由だ。立ち尽くしている時間は過ぎた。未知の世界がすぐそこに迫っている。俺はほとんど溶解している。どこにも行くべきところなんてない。そしてその場その場で行くべきところは目の前に現れるのだ。目の前に見えるこの風景の中に入っていくことが今やるべきことだ。やるべきこと、という言葉の中にぬるりとしたものはなかった。冷たい雨の気配が俺の背中を押した。俺の足はほとんど自動的に動いて、身体は塀の真ん中に投げ出された。

 猫が鳴いている。散発的なリズムで、尻尾を揺らすタイミングとなくタイミングが同じ猫がいる。いくつもの月が俺の視界の中でゆらゆら光っている。冷たい風は俺のことを包もうと背後から迫ってくる。明かりはない。猫の瞳は、不気味だったがこの世界では唯一の明かりでもあった。この明かりが照らしているのは塀が続く限りだ。つまり俺の目の前の道だけだ。だんだんとコンクリートがボロボロになっている感触がする。土の柔らかさが足の裏を伝わって来る。いつもは靴が汚れるから歩かないが、雨に濡れてはいけないのだ。雨に濡れることは何よりも回避するべきだった。それは猫のように、毛が濡れてしまうからかもしれない。

 猫は俺の味方なのか、それはわからないし、この世界は味方と敵しかいないほどシンプルじゃない。人間は人間に似せて建造物を作った。俺は体内で生活し過ぎたのだ。建造物とは子宮のメタファーに過ぎない。塀の上に乗る猫は、子宮の外側を埋める現実と同じような意味を持っているのかもしれない、そう思った。足元の土がやけに濡れている。俺は靴が汚れるのが嫌だった。歩いた。走ることはしなかった。月が、いくつもの月が俺のことを照らしていた。

 何もできることはないのだ。何もできることがないのに何かをさせられている。すぐそこまで雨は迫っている。雨は俺に優しい。猫は俺に優しくはない。闇を恐れるのが人間なら、俺は非常に人間的だ。この瞬間に、ほとんど獣のように何かを予感しているだけの、この瞬間に俺は一番人間的なのだ。胎児の夢をようやく脱出できたのか、俺は泣いていた。猫が鳴いていた。夜はどこまでも暗かった。