ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

指輪と放浪

 財産も蔵書も何もかもなくしてようやく自由の身だ。分厚いコートだけが俺の身を守ってくれるしどこにでもいける気がした。浅い眠りを起こすクラクションの音色に目眩がする。めまいがするほど明け方の街は明るい。今日は新宿の方へ行こうか。

 定期券はあと一ヶ月だけ生きていた。僕の命のありったけなんて所詮はその程度だ。資産と一緒に僕のつながりはおおかた差し押さえられたが、定期券も携帯電話も生きている。それらを捨て去って、いっそ山にでもこもろうか。なんでもできる。自由なのだ。

 ポケットの底には、霞のようなコインがいくつか転がっている。コーヒーを飲もう。うらぶれた街の裏側で浮浪者が空き缶を拾っている。コーヒーの缶はとっておこうか。これが俺の資産か。一言呟いたら、捨ててしまおうか。

 知らない自分に出会うだけだ。通りを行く俺に与えられるのは、店員のかすかな微笑み。冷たい風が足元のレシートを吹き飛ばした。雨が降りそうだった。

 この風を、誰も見ていない。千駄ヶ谷は朝の五時半で真っ暗だった。重くのしかかる髪の毛をかき分けて太陽のやってくるだろう方向を見た。例えばあの八月のように、鬱が夜明けとともに目覚めて俺に停留していくかもしれない。もうじき朝焼けが俺の視界を赤く染めるだろう。一日はとっても長い。世界は新しくなる。

 時計台の上から鳩のつがいが俺の足元に飛び降りてきた。二羽は俺の足元をぴょこぴょこと歩き回っている。最近の鳩は逃げなくなった。俺たちが無害だって知っているんだ。俺たちが可愛がっているって知っているんだ。そのしたたかさはすきだったが、残念ながら俺は彼らの物乞いに応えてやる余裕すらない。

 俺は鳩をしばらく見つめた。鳩は俺の存在なんて気にせず地面を突っついて歩き回っていた。すると鳩が突然大きく羽を広げて、飛び去るのかと思いきや小さなジャンプをして地面に飛び降りる。鳩の口から小さな銀色の物体が飛び出した。闇の中で街灯の光を受けた銀色の物体は太陽を先取りするみたいにキラリと光った。アクセサリーのようだった。しゃがんで、拾ってみるか。今までなら絶対に見つけられなかっただろうと思う。都市はこうした形での採集生活を送れるのか。

 しゃがんだ俺を避けるように鳩は遠ざかっていった。街灯の下にいるのはアクセサリーと俺だけだ。近づくとそれは指輪だとわかった。何か違和感があった。いや、違和感とは逆の感覚だ。俺はこの指輪をよく知っている。やけになつかしい。これは俺が妻に贈った指輪だ。

 覚えている。百貨店の店員に勧めらるがままに買った指輪。できるだけ高いものを用意したつもりだった。手にとって眺めた時にも価値がよくわからなかったが、店頭で出会ったときよりもいまの方が輝いて見えた。妻とは、あと数日で他人になる。この指輪は、なぜこんなところで、鳩の体の中から出てきたのだろうか。

 俺は妻が指輪をほそい薬指から外してゴミ箱に捨てた姿を想像した。或いはベランダから投げ捨てたのかもしれない。俺はやけにおかしくなってしまった。あまりにもできすぎた世界だ。俺は浮浪者で、路上でゴミになった婚約指輪と出会う。最高だ。皮肉ではなく、そう思う。東の空はほんのりと紫がかってきた。これから朝になる。さあ行こうか、相棒。俺は指輪を拾ってポケットに入れた。コーヒーの空き缶と指輪がぶつかってガチャガチャと音を立てた。俺はやけに軽くなった足を、新宿に向けて歩き出した。