ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

理解の仕方についての所感

〈理解するとは何か〉

 僕らは人と話してて、何かを理解したり共通の認識を持ったりする。幼いころから幾度となく繰り返してきたこの現象が最近特に気にかかる。

 というのも、自己と他者は原理的に相互理解が不可能である事実があるから。バタイユ的に言えば他者との非連続性。存在の深淵。

 今の科学技術では私の考えたことのダイレクトな共有は不可能で、また物理的には私は誰とも繋がっていない。私が傷を負っても他の人に影響はないし、私が死んだ事を直接の死因として死ぬ人もいない。(事故の巻き添えなどの死因は言うまでもなく事故である。)

 これが他者との非連続性という事だと私は理解している。私の生命や身体や精神は根本的に孤独である。

 だが、だとすれば理解とは一体何なのだろうかと思った。坂口恭平が言っていたように僕らは「何故か」理解している。或いは、よくある事だけど、理解した気になっている。だから度々、僕らは自分で勝手な解釈ををして人を困らせてしまう。でも原理的には全ての理解が勝手な解釈にあたるものだ。誰かの理解に他者は関与することができない。

 僕らは一般的に、何かの物事を言葉や活動で表現可能な時を「理解した」状態だと思っている。だから学校ではテストを行うし、会話の中でお互いの認識を確認しあったりする。でもそれって「理解する」という現象の便宜的な定義にすぎないのではないかと思う。

 そこで、会話をモデルとして理解のプロセスを少し考えてみた。

 


〈理解のプロセス〉

①相手が何かを発話して、その言葉を聞き取る(物理的な、音の段階)

②言葉の意味や文脈(表現や発話に至るまでの個々の歴史)を受け取る

③自分の中で”何か“を感じる、生じる(発生)

④感じた“何か”を言葉や、音楽等なにかの表現形態に加工する(変換・加工・翻訳)

⑤加工したものをストックしておく(表現可能な状態)

⑥必要に応じてストックしたものを別の表現形態に加工する(再加工)

⑦表現形態になったモノを表現する

 


 こう考えると、「理解」にあたる部分はどこなんだろうと感じる。④の受け取った、感じた“何か”を表現可能な形態に加工することができた段階で理解なのだろうか?これは会話であれば「説明できる」とか「次の言葉が浮かぶ」状態だと思われる。

 それとも③の自分の中に“何か”が浮かんだ段階だろうか?言葉以前の、感情のようなものが浮かんだ時、感じた時なのだろうか?私は、感情や感応は言葉(に限らずあらゆる表現形態に)先立つと考えている。

 それとも②の文脈や意味を受け取った時なのだろうか?これは感情の前段階の、直感にも繋がる部分で、③とはセットだと思うけれど。

 それとも①の何か物理現象として起きた時だろうか?(感覚器官に物理的な反応が起こる時。音波が鼓膜を揺らすとか、光が網膜に反射するとかそういう段階)

 


 と、ここまで考えてみて、理解とは①〜⑦全ての段階の中で生じている連続的な現象なんじゃないかとも思った。

 やっぱり「理解した」瞬間なんてないんじゃないかとも思う。ただ、③の感応(直感、勘、感情の発生)の部分と、④の加工する部分はとっても重要なファクターだと思っている。

 なぜかというとさっきも言ったように僕らは普段、加工したモノを「理解したモノ」として扱っているからだ。

 説明可能な段階で知識としてストックしている言葉や、表現可能な技術としてある、絵画技法や音楽の表現とか様々な表現形態は全て④の段階を通ったものである。

 でも言葉にならない感情とか忘れてる記憶とかそういうモノもあって、それは③の段階で留まっていたり、自分の中で加工が不可能だったり、受け取った段階で加工ができなかった場合だ。

 なので実際のコミュニケーションの中では「理解した」と言える段階は、③と④の間に存在すると思われる。

 


〈言葉偏重の社会〉

 何より言えることは、理解するという現象の中で、言葉での理解というのは一部分に過ぎないということだ。

 何か情報があった時、その情報に対して感じた事を言葉に変換する人もいれば音楽に変換する人もいるし、絵画や字や立体物や、もしくは何らかの行動で表すこともあるし、それは各人の変換アダプタがどこに繋がっているかという問題でしかない。

 だから、社会を生きていく中で言語が重要視されるのはわかるけど、テストができなくてもいいよ、とも思う。説明偏重社会であるとも思う。言葉で説明できることがよくて、言葉で説明さえつけばなにをやってもいいという感じがする。

 でもそれはとてもフェアじゃないなとも思う。言葉を聞いて何かを感じる。それを音楽や絵画に変換する人もいる。全ては変換アダプタの問題だ。

 例えばドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」はフランスの詩人ルコント・ド・リールの詩を読んだドビュッシーによって書かれたピアノ曲である。

 彼は文章を読み受け取った事をなんらかの形で理解して、器楽に加工して発表した。

 モーツァルトは頭の中に常に完成形があったというのは有名な話であるが、彼は⑤の段階で音楽ができていて、それをテキスト(楽譜)に変換するのがとても正確だったのだと思う。

 こんなふうに、変換する、加工するというのは偉大な人の中でも行われているし、僕らだって日常的にやってる。

 何か言われた言葉が悲しくて、泣いてしまう。例えばこれだって一つの表現形態で、言葉が涙という行動に変換されてしまった例である。

 会話をするのだって同じ事で、言葉に対して感じた事を言葉に変換して話している。そしてこの変換がうまくいかないと言葉に詰まったりする。

 坂口恭平が、何かを作るのは感じてもらうためだみたいな事を言っていた。僕の文章を読んで音楽や絵を感じる人がいる。空間を感じる人がでてくるためにやってるともいっていた。

 それは要するに変換アダプタを増やすと言うか、受容体に例えてもいいんだけど反応する受容体を増やす、接続できるアダプタを増やすような表現なんじゃないかと思う。変換を手助けするというか、感覚を引き出すというか。引き出すというのはとても大事だなと思った。  そしてここからは自分の理想だけど、僕もそういう表現がしたい。言葉や音楽や絵画や何かの形になるような良質な(?)感情を起こさせたいと思ってしまう。いや、受け取り方に良質もなにもないからこれは間違いだ。

 何か感じてくれるものが出るような表現がしたい。言葉で書いてるのに音楽になっちゃう文章とか、音楽なのに絵画になっちゃうとか、そういうの。言葉では言い表せないけどそういう広がりみたいなものを感応させたい感応したい。

 そしてその感応は官能でもあって逆に言えば全ての感応は官能なので全てのコミュニケーション、全ての表現、もっというと全ての存在はエロティシズムを内包している。それを感応して官能しちゃった人がフェティシズムを持った人になっちゃう。フェチも増やしたいな。いろんなものを官能したい。そしていろんな人に官能してもらいたい。そのために感応できるような音楽を頑張ろうと思うのですさせる。