ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

教室と天国

<教室、神さま、恋愛>

 子供は全てを知っている。大人の質問には絶対的な「答え」があることも、「答え」を言えば褒められることも、そこから逸れると怒られることも。そして、自分の持っている根本的な欲求ーー遊びたいとか、人を好きになるとか、自由な席に座るとかそういうことが「答え」でもなければ、尊重されるべき正しさでも無いことも、知っている。

 だから僕はキリスト教を知った時にやけに深く納得したんだ。僕は生まれつき悪い存在である、生まれた時から罪を抱えているって明確に書いてあったから。神さま、私の罪を許してください。もう授業中に立ち上がったりしないから。

 でもそれをお願いする相手は神さまじゃない。順序があるんだ。まずは担任の先生にお願いして、それから校長先生、教育委員会を通って文部省で会議をした後に国会で審議を受ける。それから国際裁判をして国連の討議を勝ち抜いたお願いだけが神さまに届けられるらしい。神さまのところに直接お願いしに行ければ良いのだけれど、そう考えるのも「礼儀がなってない」のだろう。「礼儀がなってない」これもきっと僕が背負ってる罪の一部だ。

 巷ではラブソングが流行ってる。僕はクラスのゆりこちゃんが好きになったから告白した。その日から友達にエッチだと言われるようになった。世界は単純だ。好きとエッチは一本の直線で繋がっていて、僕は誰かを好きになったから、エッチにもなってしまった。

 神さま、僕はたぶんあなたが好きです。そう言うのがきっと神さま的な「答え」なんだと思います。あなたのことが好きだから、僕のことも好きになってください。ラブやエッチが悪いことだとは思えないけれど、あなたが言うならきっとそうです。みんなはよくわかってます。僕もよくわかりました。神さま、ごめんなさい。神さま、愛しています。

 こんなふうに、眠る前に祈ったりもした。

 


<孤独と見せしめ>

 孤独を自ら選び取るのはとても難しい。飲み会や打ち上げに参加しませんと言った時の、周りの目は苦しい。特にそれが立場が上の人間が企画したものだったらそれこそ目も当てられないほどの非難のこもった眼差しを受ける。「場」を尊重しない人間は虐待しても良いのだ。そしてその一番の罰は、集団を意識させた上で疎外すること。

 思えば幼い頃、孤独は罰だった。

 何か罪を犯すーー例えば、給食を残すとか、漢字プリントが終わらないとか、そういうくだらないと言えばくだらない種々の罪を犯すと、給食の後の昼休みの時間に一人だけ教室に残って、先生や周りの子どもに監視されながら償いをしなければいけなかった。

 簡単で使い古された言葉で言えば見せしめ、神話的な言葉で言えば生贄とか、スケープゴートみたいなものだ。先生は神さまだったし、荒ぶる神を鎮めるためには魂を捧げる羊が必要だ。僕は神を怒らせた。神は僕の命を求めた。それは超自然的な強制力だ。そして僕は共同体の中で共同体的な死を迎え、神によって蘇る。奇跡を体験した僕は、給食を残さず食べられるようになるし、もう漢字だって間違えないのだ。

 共同体的な死をもたらすのは見せしめだ。ある同一性を保った集団の中の一人を異質なものとして異質性を浮かび上がらせること。その異質な個体はだいたいいじめられたり、迫害を受けたりする。そうでなくても異質であることを責められる。同調圧力なんて言ったりする。有名なストーリーだ。いじめっ子は言わば神に生贄を捧げる神官なのであって、共同体の理屈で言えば善なる存在なのだ。だからいじめは無くならない。原理的に、そして神話的に教室を紐解けばそれも一つの「正しさ」の中にあるのだから。

 とはいえ世界は愛に満ちている。基本的には、神は人を愛し、導くのだ。教室は実にキリスト教的で、卒業という死をもって、そこで初めて流される神の涙によってあらゆる苦しみが贖われる、感動的なストーリーだ。涙で終わる。全てはハッピーだ。涙さえ流せば。僕は涙を流せそうに無いし、僕が流してきた涙は、それは本当は血なのだけれど、愛として消化されてしまう。巨大な物語の胃袋の中で、僕らはとても無力だったし、全ては愛の構成要素だった。

 孤独は本来豊かなものだろう。眼差しの力を強化するために悪用されるには少し素敵すぎる。ジーザスは本来、共同体から疎外されていた、犠牲の羊を救った人間だった筈だ。新たな生命は、新たな定義は孤独や疎外から生まれたのだ。でも、孤独を自ら選び取るのはとても難しい。だから僕は飲み会も、打ち上げも、参加するって言ってしまうんだ。神さま。