ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

生活の途上で、

 ぼくらは途方に暮れながらも、とぼとぼ歩きで何処かを目指してる。いまだかつてないくらいの苦しみを今まさに更新し続ける生活の途上で。

 忘れてしまいたい悩みも、投げ捨ててしまいたい苦しみも、もうこれ以上浸っていたくない嘆きも。

 何もかもすべてがぼくの生命で、呼吸で、心臓で、肺で、腕で、脚で、終わらないぼくの呼吸で。

 彼女の呼吸が終わったとき、ぼくの生活はまだ途中、真っ暗闇のなかをたゆたうあの娘、ひとりぼっちのあの娘、哀しいね。死が美しいなんてウソだよ。

 真っ白な絶望が静かに降りてくる。夜は自己嫌悪で忙しいから、他人の生命を願う。生活を願います。結局、

  ぼくらは目を閉ざした。その目で誰かの目を見て命乞いをした。真っ暗闇のなか、瞬きをするとき彼女は生きていた。呼吸をした。真っ白な部屋のなか、紛れもないぼくらの生活のさなか。

 ただ歩き続ける先に何があるのだろうか。壁。途方に暮れながらも生活が続く、眠れないぼくにだって朝はくるということが、いつかきっと救いになる。

自分を守るための教条主義入門

 ダメだと言われるのが怖い、という人がいる。自分のやったことひとつでもダメだと言われると、人格を否定された気になってしまってナーバスになったりパニックになったりする人だ。

 そういった人々に対して周囲の人間は「考えすぎだよ」とか「気にしないで」とか、下手すると「あなたのためを思って言ったのに」とか言ってきたりもする。ダメだしが怖い人はその言葉に絶望して心療内科に駆け込むんだけど、帰ってくる診断は不安神経症パニック障害といったもので、これで公的にダメ出しされてしまい落ち込み、死に至る。

 こういったことは、ハタから見ていると結構笑えるはなしなんだけど、実際には笑い事じゃなくて現実にたくさん起きている。

 では、なぜこのような悲劇が起こるのだろうか。

 それは、ダメ出しには少なからず人格批判の要素が入っているからだ。そもそも人格とはなんだろう。

 コトバンクを見ると「人格」とは

『独立した個人としてのその人の人間性。その人固有の、人間としてのありかた。』

 と、定義されている。

 人格とはそのひと特有のあり方なので、そのなかには他人にとっていい部分も悪い部分もある。

 そして、その特有のあり方は行動と切り離して考えることはできず、つまり行動を批判されるということは(ダメ出しは)、人格批判でもあるということだ。

 「ダメな部分だけ直せばいいんだよ」と言う人がいるかもしれないが(ダメ出しで傷つく人間の周りには確実にいる)そもそも人間はダメな部分と良い部分に分けてダメな部分だけ変化を起こせるというものではなく、それらが関連しあってひとつの人格を形成している。ダメとされている部分を直せば、きっと良いとされている部分も変わっていくんだろう。次の瞬間には「なんか、変わっちゃったね...」と言われる。そしてその感想が出たとき、変わった当人は至極正しく変化する道を歩んでいると言える。

 行動を改めるためには全人格的に変わっていかなければいけない。行動はエートスに結びついて行われるものだからだ。

 ダメだしで傷つく人間はひどく純粋なんだろう。体のなかにある言語の構造も純粋で、言葉の定義を純粋な形で保存してる。だから、こうした行動と人格の結びつきにも敏感で、行動だけを直せば良いというウソやごまかしを拒否してしまう。

 傷つきやすい人の心の声はこうだ。

 「わたしはありのままの自分をさらけ出してそのままやったのに、それがダメってことはありのままの自分ではいられないってことなんだ。だからありのままのわたしは他人にとって必要ないんだ...。」

 これはぼくの心の声だ。このとおりめちゃくちゃ極端。でもそれはしょうがない。極端な人に「極端に考えるのをやめなよ」というのは無理だ。野球選手に対して「ヒットを打てよ」とアドバイスしているようなもので、正しいけどそう簡単にはできない。

 何が言いたいかというと、ダメだと言われるのが怖い、ということを気に病む必要はない、ということだ。「気にするな」の声を気にするな。傷つくものは傷つく。それが分かったら、つぎに大事なのはどうやって自分を守るかだ。

 

 自分を守るために禁止事項を設けたほうがいい。本当の柔らかく壊れやすい自分はしまっておいて、禁止の鎧を着ることによって、柔らかい自分の傷つきを回避しよう。

 ルールを守るためには権威的に、教条的になる必要がある。

 傷つきやすい人は、権威主義教条主義がいちばん嫌いなはずだ。ウソやごまかしが嫌いだからね。でも、この場合は権威があればいい、ルールを守ればいい、という二元論が自分を守ってくれる。多くの人はウソやごまかしには気づかない。気づく人がいたら、それは仲間だから本当の姿を見せれば仲良くなれるかもしれない。

 傷つきやすい人はルールを守ることは得意だから、どんなルールでも自分で作れば従う。たとえば強引さが足りないなら、『ルール1:お願いしない+100点』とか。このとき点数をつけるのがコツだ。言葉に敏感なので、点数をつけることでゲーム感覚で楽しめる。

 ありのままの自分で他人にぶつかって行かなきゃ意味がない。本当にそうだ。だけど、自分の誠実さとか真面目さに応えてくれる人は少ない。真剣にやればやるほど人は離れていくし、離れない場合はいじめてくる。

 そうじゃない人ももちろんいる。でも、大勢を相手にしなきゃいけない場合はどうしても他人とぶつからなきゃいけない。そういう時は人間とは残酷で不誠実なものだと諦めて、ゲームの内容を変えてしまおう。

 ルールをいくつ守れたかな?ゲームをやろう。

 そうすれば、失敗して人から責められても、ゲームひとつ分のことだって相対化できる。実際にはそんなに楽ではなく、いくらやってもかなり傷つくことは知ってる。それでも、痛みが軽減されていることに気づくはずだ。

まじめな僕と生きづらいあなたのために

 人と関わるとき、まじめではたぶん、好かれない。かなしいけど、ほとんどの人からまじめな人は敬遠されちゃう。簡単に、ユーモアを交えて、知らなかった世界をみせてくれたり、価値観を転換してくれる人、そして自分の無力さを感じさせないような人がモテる。承認欲求を満たしてあげるためには、余裕が必要だ。その余裕を人はきっとユーモアって言うんだろう。でもそれって本当のこととか真剣なことの濃度を下げるってことだから、まじめな人にはつらいよね。

 人になにかを伝えるためには、ちょっとふざけなきゃいけない。底や弱みを見せてはいけない。なんでかって?真剣に話を聞いてくれる人は少ないからだよ。

 こうしてぼくの文章を見てくれる人は、真剣に話を聞いてくれる人だってことは知ってる。だからぼくは結構まじめなトーンで文章を書いてる。そしてきっとこの文章を読んでる人は、まじめになにかを伝えたい人でもあるだろう。まじめに伝えたいのに、真剣に話したり本当のことを言おうとすると、みんなが離れていくって経験だってしてるはずだ。かなしいよね。

 人間は、快感をもとめて苦痛を避ける。君のまじめさはきっと、誰かにとっての苦痛なんだね。それは間違ってる。君は正しい。苦痛だからといって真実から目を背けるのは誠実じゃない生き方だ。

 君は、ぼくらは、自分とちがう正しさを受け入れるだけの柔軟さも持っているから、誠実に議論を重ねれば、誰とだって分かり合えるってことを知ってる。たとえ分かり合えなくても、違った正しさを共存させたり、妥協点を見出すことさえできるってことも知ってる。お互いが誠実な態度で話し合えばね。その誠実さは苦しいけど、本当の人生はその苦しみの先にしかないことだって、知ってる。なのに、みんなは本音を隠して、苦痛を避けて、本当のことを言わないままに、楽な方向に流れつつ、文句を言える場面でだけ文句を言って、なんだか満足してるみたいだ。なにひとつ前には進まない。声が大きかったり話が上手な人がウソでも、欺瞞でも自分の意見を押し通していく。むなしいよね。話が通じないんだ。声が届かないんだ。それに対抗するにはユーモアしかないだろう?

 ぼくらはふざけなきゃいけない。辛口のカレーにひとつまみの砂糖を入れるみたいに、すこしだけじぶんを偽る必要がある。

 君は賢いからきっともうそのことに気づいてるんだろう。そしてきっと、実践だってしてるはずだ。伝わるよね。クラスのなかで正しいことを言うためには、正しくないことや無意味なことを言わなきゃいけないんだって、絶望する。むしろ、正しいことなんてほんの少ししか受け入れてもらえない。正しくないことや無意味なこと10個に対して正しいこと1個ようやく受け入れてもらえたらラッキーくらいの感じかな。

 そう。少しふざければたしかに伝わる。でもそれはむなしい。かなしい。疲れる。本当に言いたいことはこの何倍も何十倍もあるのに、じぶんの粉飾した部分だけを見て、いい人だとか、面白いとか言われても嬉しくないよね。

 深海魚が灯りを灯すみたいに、ユーモアやおふざけで人を集めてきたぼくらは、いざ本当の自分をさらけ出す段になると、こわがってしまう。でも、きみの、ぼくらの、本当の輝きは正しさのほうにある。正しさへの愛にある。じぶんの正しさも他人の正しさも、それら全てを包含して尊重するだけの愛。とてつもない愛の総量を持ってるはずだ。誠実さと言ってもいいし、まじめさ、とか体力、とも言えるね。

 正しくないものや無意味に思えるものが尊重される時代のなかで、君はきっと苦しいはずだ。不器用なぼくのために神は救いを与えてはくれないかもしれないけど、ふざけることは救いを与えてくれる。

 ...でも実は、そのなかで輝いてる正しさに、ひとかけらだけ残った正しさに、ほんとのほんとは救いを見出しています。

 おやすみなさい。宗教とかじゃないよ。ぼくのための言葉を書いたんだ。ぼくのための言葉が、あなたのための言葉でもあるなら、それほど嬉しいことは他にありません。おやすみなさい。ありがとう。

言葉の外へ

 自分の本体を言葉だと思ってしまうときがある。言葉で捉えられる自分が自分なのだ、という感じだ。こういう名前で、こういう特徴があって、こういう職業で...。でも、それはあくまで言葉であって、自分ではない。

 言葉にしてしまうと、自分というものはいくらか言葉の網の目からこぼれ落ちてしまう。少なくとも、身体は置いてきぼりにされる。それを身体性がない、などと言ったりするんだろうけど、身体性を回復しろ、という言葉はむなしい。よく見かけるのが、スポーツや音楽による身体性の再発見というスローガンだけど、スポーツや音楽はそれだけでは身体性を再発見すること、つまり言葉の外側に出ることができないんじゃないか、と思う。普通にやったらスポーツや音楽は言葉の代替物だからだ。

 自分は言葉でもなく、思考でもない。自我というと、自分の考えのように思えるのだけど、心はたぶん身体とか思考とか魂とかそういう全存在的なものなんじゃないか、とか思うのはたぶんみんな同じで、当たり前すぎて誰も言わないんだろう。

 こんなふうに言葉と自分について考えていると、自分が否定することしかできないのに気づいた。言葉の外側に出たい、出るための方法を考えている。けれど、その方法は見つからない。これはちがう、これはちがう、と言っていくことしかできない。

 ドーナツの穴が存在しているのだろうか、というのは哲学上の大きなテーマらしい。ドーナツを外側から食べていくと、穴は消え去ってしまう。ドーナツ生地に囲まれた空間はあったのだろうか、なかったのだろうか。視覚的に考えると、その空間はあったように思える。囲いがあった。規定されていた。

 地面があって、その地面のまわりに囲いをつくって「俺の土地だ!」と主張したとき、その地面と他の地面とはどういう違いがあるんだろうか。言葉が付加されただけなんだろうか。よく、書類だけの問題で実際は土地を所有することなんてできない、とか言ったりするけど、その場合地面に違いはなく、あるのは付加された言葉だけということになるから、まわりに作られた囲いは、契約書の代替物になるんじゃないか。つまり囲いは言葉である。囲いと言葉は同等の意味を持っている?しかし現実的にそうじゃない。囲いは囲いで、言葉は言葉で、契約書は契約書だから。

 ドーナツの穴も同じようなもので、穴が存在する、と言えばドーナツの生地は言葉と同等の意味を持つ?結局は言葉の問題なんだろうか。囲いやドーナツの生地、僕の身体や全存在、そうしたものは言葉によって規定されているだけなんだろうか。であれば、ぼくらは言葉によって動かされる、言葉の奴隷のような存在なんだろうか。

 そんなことはない。

 そんなことはないはずだ。

 自分の本体はきっと言葉ではない。

 と思うのだけど、その主張を肯定する言葉が出てこない。否定する言葉と、否定を否定する言葉が出てくるだけだ。

 


 何故こんなことを考えたかというと、生きているのが辛くて苦しいから。

 現実のぼくの身体はベッドの上に座っているわけだから、苦しくない。頭はこれだけ旺盛に動いて言葉を生産し続けているんだから、不調はない。であればこの苦しみは心とか感情とか言われるものの苦しみだということになる。

 ここには無理やりな論理の飛躍があって、人間は心、頭、身体の三分割ができるような存在である、という前提で話をしてしまってる。だけど今回は許してほしい。魂を知覚することはできなかったし、この三つ以外を自分は感じることができなかった、

 ぼくには不安がある。「歌がうまく歌えるだろうか」とか、「このままで将来生きていけるだろうか」とか、「教育実習うまくいくだろうか」とか。これらに共通するのは徹底した未来志向だ。現在のことは一切考えていない。不安とは未来に帰属する感情らしい。

 ぼくには後悔や恥ずかしさがある。「あのとき何であんなことを」とか、「もっとこうしていれば」とか、「悪く思われていないだろうか」とか。これらに共通するのは徹底した過去志向で、これも現在のこととは関係がない。後悔や恥ずかしさとは過去に帰属する感情らしい。

 恐怖は未来だし、怒りは過去だ。このように感情は未来や過去のことを思ったときに発生していることがわかる。いや、細かく分類すればきっともっと細かい定義があるのだろうけど、今感じられる範囲だとそうだ。

 これを踏まえると、感情が苦しいというのは、どうやら感情が未来や過去のことを考えているということらしい。

 感情が不安な未来を予測すると、そうならないように行動しろと身体を急かす。いくら感情がわめいても、実際に行動するのは身体だからだ。

 けれども身体は面倒なことをやりたくないので「それは嫌だ」とつっぱねる。

 とはいえ不安な未来は無限に多種多様にあるので、どれだけつっぱねられても感情は「歌の練習をしつつ女の子と連絡をとって授業の計画を立てて料理をつくって将来のために勉強をして先輩に媚を売れ」くらいの要求はしてくるものだ。

 ご存知のように今のところ人間は身体をひとつしか持てないため、身体は「そんなの無理だよ」と言って無気力になる。疲れる。当たり前だ。無理な要求に対して無理を表明しているだけだから。

 なのに感情はそれを許さない。「不安な未来に対して行動できない自分はなんてダメなやつなんだろう」と自分を責め始める。こうなるともう苦しみの連鎖は止まらない。

 この、未来や過去を生きる感情と現在を生きる身体の矛盾が苦しみを作り出しているのではないかと思った。

 解決策のひとつは、身体の声を積極的に聴くことだ。感情はいつも大きな声でまくし立ててくるから、わざわざ意識しなくても耳に入る。それがあらゆる行動のエネルギー源になっているのだから、普段は感謝しなきゃいけないんだけどやり過ぎると矛盾を起こしてしまう。

 そうなったとき身体は無理な要求に疲弊してる。寝たい、疲れた、しんどい、マッサージを受けたい、など抽象的なものから具体的なものまでさまざまな声を発している。けれどその声は小さいから感情にかき消されてうまく聴けない。だから、意識的に耳を澄ませて身体の声を聴いてあげる必要がある。それに従って行動すれば、現在の自分が求めることはしてあげることができ、気分も少しは良くなるんじゃないだろうか。

 もう一つあるなら、感情を止めるという方だろう。これはマインドフルネスや禅やアウェアネスレーニングといったメディテーションの分野になるんだろう。心地良いセックスや自慰行為もここに入ってきそうな気がする。その瞬間何かに集中したり耽溺することで、未来や過去の駆動を止める、そういうやり方。

 でもこれは対症療法でしかない、というのもわかる。なんとなく辛い。なんとなく苦しい。その苦しみはいつか終わるのだろうか。自分や自分をとりまく言葉に感情が動かされず、泰然自若としていられるようなそんな人生を願っているけど、この要求もまた感情が未来に託す幸せなイメージであり、自分の苦しみを広げているのかもしれない。言葉の外へ。言葉の外へ。

秩序が崩壊していく!?ひまわりとたいようについて

 ひまわりが太陽に似ている。

 この世界には宇宙というのがあり、ぼくらがいる地球というのもそのなかに浮かんでる星と呼ばれる物質の集合体のひとつ、ということになっている。ぼくらが昔そうやって分類した。

 太陽もまた宇宙をただよう星のひとつらしい。そしてその太陽と、地球のなかのひとつの生命であるひまわりが似ている。

 太陽は宇宙をマクロに見なければ見えないし、ひまわりは地球をミクロに見なければ見えない。だから、ひまわりが太陽に似ているというのは、末端が全体に似ているということで、ひまわりと太陽は末端と全体の対立の極同士でシンメトリーに並んでる。

 人間は老いると幼くなる、というのを聞いたことがあって、実際にキレる若者も、キレる老人も両方みたことがある僕からするとそれはなんだか納得がいくような気もする。

 千葉雅也の実家で、幼い姪が眠くなっているのに、眠いことを認めたくなくて怒る、しかし目はトロンとしてきて体の動きは緩慢になり、ついに眠ってしまう、というようなことがあったってツイートを見た。

 それはアルツハイマーの祖母とシンメトリカルな心のあり方だ、と千葉雅也は言う。自分が自分でなくなることの恐怖、自我が確立していく段階が幼少期だとすれば、老年期に入ると人間の自我は散逸していくんじゃないか。だとしたら、それはなんだかとってもロマンティックだ。

 ぼくは理系を高校一年生でやめてしまってそれ以来理科を勉強していないから、その程度の理解で述べると、世界にはエントロピーの増大則というのがあるらしい。エントロピーとは乱雑さを量的に測る指標のことだ。つまるところこの世界のエントロピーは常に増大し続けるのだという。つまり、この世界はどんどん乱雑になる。秩序は崩壊し、物質は離散し、とびちる。

 ぼくは高校一年生までは理科を勉強していたから、原子や分子といった単位で物質がつながっていたり、電気的にプラスマイナスで結合したりすることはなんとなく知ってる。それはエントロピーの増大と逆の方向で、秩序を形成してる。

 死とはなにか、と考えたとき、物質のエントロピーが増大して、秩序が保てずカオスになった状態と言えるんじゃないだろうか。

 有機物は死ぬと分解されて土の肥やしになったり別の生物の一部になる。太陽などの恒星は進化の終わり迎えると、超新星と呼ばれる、大規模な爆発を起こす。ギリシャ神話だって最後には戦争が起こって世界がめちゃくちゃになってから人類の歴史が始まるし、シヴァ神は破壊をする神であるから創造も司ることになった。なにが言いたいかっていうと、生物とか星とか世界の終わりの時はすべてのものがめちゃくちゃに散逸していく、つまりエントロピーが増大していくということだ。

 人間は死ぬときに自我が散逸していくんじゃないか、というような話をした。そこから聞きかじりの熱力学の話をしたんだけど、つまりこれは全体と部分がつながっているということで、部分たる自我が全体(のような)宇宙に散逸していく姿のロマティックなイメージに心奪われて、つい書いてしまった。星も人間も世界も花も死ぬときに散逸していく、のかもしれない。これはまるでひまわりが太陽に似ているように、人間は世界に似ている、と言えるかもね!

いつだって幸福

 たまごの形をした鈍色の鉄球は太陽を反射してオレンジ色の光を四方八方に振りまいていた。ぼくはそれを見て戦争の二文字を思い出す。ぼくが生まれたときから、戦争といったら第二次世界大戦のことで、それは戦国時代に、「先の大戦」という言葉が応仁の乱を指していたように自明であり、第二次世界大戦は金属の戦争であった。

 金属製の銃を撃ち合い、金属製の飛行機が空を飛び、金属製のものはすべて接収された、らしい。いや、爆弾の投下された焼け跡から、金属製の弁当箱と、炭化した弁当の中身が出てきたのだから、金属は生活のなかに生き残ってはいたのだろう。

 いずれにせよ凄惨で、イメージすることもむずかしいし、イメージできる、とは絶対に言えない。そのときの苦しみや悲しみを、ぼくは体験していないから、安易な共感はできない。嘘になってしまうから。ただ、事実を知り、うごく心は存在する。その分だけの痛みを感じることは、どうか許してほしいと思った。

 鉄球が夕日を跳ね返してる。ぼくの手元には鉄球がある。高さは40cmほどで、横幅は両手で持てるくらいのサイズ。ラグビーボールを二回りちいさくしたくらいのサイズといえばなんとなくわかってもらえるだろうか。形は卵形で、先が尖った楕円の形をしている。

 これが一体なんなのかは、わからない。

 ぼくは昨日の夜、ついに全ての金を使い果たした。なにに使ったかはしっかり覚えていて、コーラを買ったのだった。ぼくは資本主義社会で脱落したのだから、資本主義社会の飲み物であるコーラを、最後に買うべきだと思っていた。だから、最後のお金をコーラに使ったことへの後悔はまったくない。

 コーラはプルタブをあけると同時に少しだけ泡になって飛び出してきて、空中に弾けて消えていった。そのとき、ぼくの鼻の粘膜にすこしだけ付着したコーラがぼくの匂いのセンサーをコーラ一色に染め上げ、あの独特の清涼感を与えてくれた。唇を缶に近づけるとひんやりしていて、冷気を発するコーラの缶の周りは夏の、むせかえるほど加熱された公園においては非常に特殊な空間だった。

 コーラは口のなかで弾けた。ひとつの破裂がまた別の破裂をよび、連鎖していった。ぼくの口のなかで跳ね回る茶色い液体はいよいよ喉を通過し、ここ数年つよまる熱帯の気候に蒸し焼きにされたぼくの体を急速に冷やしながら食道を降りていったのがはっきりとわかる。

 コーラを飲んだときの、無理やり体を満たしている感じがすぐにきた。十分な食事をとったわけじゃないのに、体のなかにあった隙間が埋まっていくような感覚。炭酸は弾けながらぼくの体をまだらに染めていく、そんな感じがする。今日はどこで寝ようか。ポールスミスの財布のなかには、23円だけ残っていた。ぼくは財布を捨てたかったけど、捨てなかった。売ろう。売れるものか。眠たい、つかれた。

 しげみの中がやけにこころ安らかに見えたのでぼくは汚れることを恐れずに葉っぱを分け入って地面に横たわった。土と触れ合った頬は、空腹と栄養不足のために昔よりも薄くなっていたけど、すぐに土を快く感じるようになる。人間は動物で、どっちかといえば金属よりも土との相性のほうがいい。ぼくは眠りについた。太陽は空の真上にいたように思う。

 気がつくと、太陽は傾いてる。ぼくはポケットを探った。財布がない。

 まあ、いいか。23円とボロボロの長財布。捨てられなかっただけで、必要はなかったから。ぼくはこれで正式にお金からさようならした。財布がないから、きっともうお金は手に入らないだろう。

 「本気になればどうとでも生活していけるだろ。お前図々しいんだよ。」

 声が聞こえる。こんなことを言ったのは誰だったっけ。彼はぼくの、友達にあたる男だった。「使えない」って、よく人のことを評価していたなあ。ぼくは使えないやつだった。誰にとっても得にならないから、生きていけないらしい。そんな理屈をきいた。ぼくはそのときどうやって生きていたんだろうか。食事をして、寝て、あとは、何かをはこんだり、仕分けしたり、していたなあ。

 「生きていけなきゃ死ぬしかない。死にたくなければ生きていくしかないんだ」

 つよい言葉だった。つよい人だった。生きていくことを決めるのはむずかしい。このままならない世界を生きていくだけのモチベーションを、彼は、みんなは、何で保つのだろうか。やりたいこと、すきなこと。すきなことで、生きていく。動画サイトの広告だったかな。

 「それなのにやりたいことだのやりたくないことだのぐだぐだ言って働かなかった結果がこのザマだよ。コーラを飲んで23円の財布。おまえの迷いの報いがここにあるんだよ」

 ぼくは死のうとおもった。しかし、金がなくては練炭も縄も買えない。切符も買えない。どこか高いところから舞い降りてしまおう。それを人生を賭した失楽園のモチーフということにして、どうにか芸術作品ってことにならないかな、なんて考えながら体を起こして、ビルを見上げた。公園の周りはビルがある。どこの公園の周りにも、探せばきっとビルはある。希望を見つけるよりも、絶望を感じるよりもビルを見つけるほうが簡単だ。

 サブカル男のなれのはて、メインカルチャーの道路の上に死のうかなと思って体を持ちあげると、重い。空腹のせい、というわけでもない。物理的に重い。どこが?両手が。なぜだろうと、寝ぼけた頭を下に向ける、両手の中にはひとつの、卵形の鉄球がある。!?。どうしてだろう。けっこう重い、いや、かなり重い。ぼくは突然の重さに驚いて、腰は支えるだけの力を準備していなかったから後ろに突き出て、ぼくの体は前に折れて、土が顔に付着した。口のなかにはいった土が歯にぶつかって、ぬるりと溶けていく。土の味をぼくは知っていた。どうしてだろう。人類はたぶん、土の味を元から知ってるんじゃないか。

 ぼくは、倒れた。

 倒れた衝撃で肋骨が圧迫されて、呼吸をするたびに痛い。腰は急激な力の変化にさらされて、熱を持ちはじめた。茂みに生える草のすこしだけ太い枝に引っかかって袖が破れて、腕から血がでた。痛い、というよりも熱く、ぼくはうずくまって何度も何度も咳き込んだ。咳をするたびに肋骨が痛い。それでも、ぼくは鉄球に手を伸ばす。これだけは離してはいけない。そうおもったのは本能だろうか、鉄球は数メートル先に転がってる。すこし手を伸ばせば届く距離だ。慎重に息を吸って、ゆっくり、ゆっくり手を伸ばそう。そうやって、冷たい鉄の肌に触れたら、きっと何か気分が変わるだろう。落ち着くかもしれない、どうかはわからない。ぼくはゆっくり腕を伸ばして、鉄球にふれた。

 財布を失い、手元には、何故だか、きれいな卵形の鉄球がある。ぼくは、どうしてだろう、うれしかった。

 鉄の卵、光を反射する、澄んだ表面の、静かな、動かない、何も言わない、まだ汚れていない 、この、おそらくどこかの工場でつくられた製品は、ぼくより完全だった。

 ぼくは、精神的に不安定で、書類のひとつもまともに書けず、金を使うばかりで、物を生産せず、では、何ができるのかといえば、こうして土にうずくまりながら鉄の塊を見ていることしかできない。ただ、見ることにかけては上手だとおもう。滑らかである。光を反射する。夕暮れはオレンジ色の光を鉄の塊に反射させて広がっていく。

 そうだ、これを使って死のう。

 服をちぎって首をくくるよりもよっぽど愉快に死ぬことができそうだ。鉄の塊に頭を打ちつければ鮮血、というように鮮やかに赤く死ぬことができるかもしれないし、これだけ重いのだから。質量があるものはつよい。ぼく自身はつよくないけど、この鉄の塊は完全でつよい。

 やり方さえわかれば、道標ができれば、どうとでも生きていける。ぼくは無気力だった体に力が充満するのを感じる。コーラを飲んだ時とはちがう、実質的な力の充満。眠気が覚めた。では、どこに行こうか。東京は広い。眠ければ、眠ればいい。だってぼくには鉄の卵があるのだから。ぼくは慎重に立ち上がると、鉄の卵を持ち上げた。重かったけど、それは生きている証拠だった。死にたいのだろうか、わからない。とりあえず、ぼくはどこかに歩いていくことにする。どこにいくかは決めてない。

日記をはじめたから、『ゲバラ日記』を読んで、日記について考えてみた

 昨日から『ケーカク的しつけ』というタイトルで日記をつけはじめました。https://fererere25.hatenadiary.jp

 目標は、毎日つづけること。そしていずれ書く長い文章、小説、詩、エッセイを書く土壌をつくること。ぼくは将来、歌手になるつもりでいます。

 

 『ゲバラ日記』を読んでいると、「異常のない1日だった」という記述がとても頻繁にでてくる。異常のない1日、なにも起きなかったということだけど、この場合、異常がないのは良いことなのだろう。

 ぼくはここに日記の本質というか、特性のようなものがあるように思っていて、それはつまり、日記とは一定の日常という個人的な規範やサイクルと、それに対する差異としての種々のできごとの両方を記述するためのフォーマットだということだ。

 「異常がなかった」と言うためには、通常が定義されていないといけない。異常とは通常と比べたときの相対的な判断だから。つまり異常とは差異のことだとわかる。日記とは、差異の記述の一方式だ。

 とまあ、むずかしいことを言っておきながら、ちゃんとわかってないからむずかしい言い方しかできないわけで、わかる範囲のことを簡単にいうと、『ゲバラ日記』は面白い。革命に生きた男の人生の記録を面白いと言って消費してしまうのは良くない気がするけど、面白い。

 『ゲバラ日記』の面白さは、彼の生活が革命や闘いというひとつの目標に向かっていることが前提としてあるからだと思う。

 彼が異常がない、と言えばそれは革命にとって障害ではない、という意味になり、彼が、明日は〇〇をしなくてはならない。と言えば、革命のための行動なのだなと納得できる。彼のすべての行動や言動、そしてその記録の底には革命がひとつの基準として、目標として鳴り響いているから、昨日と今日で革命に近づいたのかどうかがなんとなく手触りとして生々しく感じられるような気がするし、つまりは日記の連続性が保たれているように感じる。

 ゲバラとおなじ大きな目標を、ぼくはこれを読んでいる瞬間だけ、非常に勝手ながら、共有したような意識が生まれる。実際にはちがう。ちがって当たり前だし、他人の人生と自分の人生の接地面を実際以上に拡大して考えるのは失礼だし危険だ。だから共有なんてことはあり得ないのだけど、意識の上で共有したような感覚を一瞬ながら感じることができる。

 ここから自分が日記を書くときに応用できるのは、大きな目標を読者と共有する/したつもりになること、つまりは目標を書くということだ。私はこういう夢や目標を持っていて、こういうことをするためにこの行動をしました。ということが明確に示せれば、日記はひとつの連続性を内包することになり、ひどく打算的に言えば、面白くなるのではないかと思う。

 前提としての目標の提示と、そのためにしている行動の記述、それが人生のサイクルや通常状態を生み出し、そうして初めて通常状態と比べてなにかが起こったときに、異常が起きた、と記述できる。

 そうした記述ができたとき、差異の記述の一方式である、日記というフォーマットが生命を帯びるのだと思う。日記についてすこし考えてみた。おしまいです。