ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

人生オシャカサマ

 不器用なのは罪かもしれないけれど、不器用にしか生きられない人もいる。わたしみたいにね。怒っている女の子につい「怒ってるの...?」なんて伏し目がちに聞いて、それがきっかけで(それ以前にも彼女のなかには色々な感情があったのだろうが)ラインの返信がなくなっていくこと、よくある。

 「わたしこないだ、あの子と光一が一緒にいるのみちゃって」

 「べつに一緒にいるのはいいよ、だって友達だから、でも、何回も見るしずっと一緒にいるみたいだから」

 「ねえ、聞いてる?わたしすごいイライラしちゃったんだ」

 マンションに備え付けられたベランダからわたしは外を見ながら、携帯が振動するのをみてる。狭いベランダには洗濯物を吊す緑色の棒が一本あって、その向こう側に壁があって、その向こう側では雨が降っているから、夏なのに気温は低い。風が吹けば、水が体にぶつかって冷たい。冷たいし、服だって濡れて体にくっついてくる。

 両親は寝てる。同じ部屋で、別々の布団で。夜だから、わたしは起きてる。雨に濡れて肌にくっついてきた服がまるで鬱陶しい友人のようだ、なんて比喩を考えて薄ら寒いほど単調なわたし、そんな風に思ったら、すこしは文学的な内省になるんだろうか、なんて考えてる、子供っぽい。

 あの子は丸顔で、ハンドバックを右側にしかかけられなくて、感情的でかわいい。腰が細いから、抱きやすいのだと光一が言っていた。あの子は光一の彼女だったから、わたしは学校で光一からよくその話を聞いていて、腰が細いのはそれだけで良いことなんだと思った。それからは毎晩筋トレはしなかったけど、テレビに映る女のひとの腰を見るようになった。

 二十代は胸に目がいって、三十代は腰に目がいって、四十代になるとお尻が好きになるらしいとどこかで聞いたから、わたしは十代男性として少し大人びることができたのだろうか。わたし、という一人称がなんとなく示唆的で、わたしが男である、とここで明かしたとき、わたしの思考、という体で書かれてるこのモノローグに特別な意味が生じる。わたし、と、十代男性。このギャップを埋めるために、たとえばわたしはゲイで、光一に恋をしているんだとか、過去のトラウマか何かで男性性に嫌悪感を持っているんだ、とか。そんな意味が生まれるんじゃないかと思った。思ったとき、携帯が鳴って、ここで携帯が鳴るのだって、ご都合主義っぽいなぁとか思いながら「光一と一緒にいて大丈夫なのかな...」などと光る携帯を見て、わたしは肌に吸い付く服を脱いで、上半身裸でベランダに立った。腰は随分と成長したなぁ。いつの間にやら、体は男、大人、これがたとえば二万年も前だったらわたしは戦いに出るんだと思って、そんなこと考えるってことはやっぱり男性性のようなものに疑問というかわだかまりのようなものがあるのかもしれない。わたしには特にトラウマなんてない。

 


 「因果論でぼくらは考えるんだ」って、波野が言った。波野はいっつもおしゃべりで、背が高くて首が太い。目をぎょろつかせていつもみたいに難しいことを言ってる。

 「仏教ってあるだろ、」うん。「あれは、世界は全部苦しみだって考えるんだ」。それって、原罪みたいなこと?

「ううん、いや、なんか、似てるのかもしれないけどさ、とにかく、世界は全部苦しみで、苦しみには原因があるってオシャカサマが考えたんだよな」。オシャカサマ。

 オシャカになるって言い回しを思い出した。オシャカになるぞって、怖い言葉。

 波野は学校でわたしの隣の席に二回なって、二回目のときに仲良くなった。波野は宿題をやってくるけど、自分のルールに沿わない宿題、たとえばプリントを写すだけとか、そういう作業感があるのはやってこないから、わたしが即席で波野の宿題を手伝ってあげて、それで仲良くなった。

 波野は勉強ができるから、天パとクリクリの目をつけた頭をよく振る仕草をしながらわたしに色んな難しい話をしてくれた。文化とか宗教とか。文系だった。女っ気はないようで、わたしの携帯が震えると、それは大体あの子からのラインなんだけど、机が大きく振動して音を増幅して、なんとなくわたしは居心地が悪くなる。考えすぎだし、見下してる。窓から風が入ってくる。波野の天パがはためいて、「だから、原因があって結果があるって日本人は考えるんだよ。因果論。」うん。「若いお母さんとかそうだろ?何かあったら、『どうしてこんなことしたの!?』って怒る。」そうだね。

 


 波野とわたしは、その日学校をやすんだ。その日はなんてことない平日で、特別なことといえば、まず空が真っ青で綺麗に晴れ渡っていたこと、アゲハチョウかなんかが飛んでいたのを、ベランダから見ていて、夏が来て、晴れていると心地いいなと思ったこと。それから、海に行きたいと思ったこと。そして、波野も同じことを思っていたこと。

 波野はいつも、自転車で学校に来る。わたしはラインで、「自転車に乗らずに駅に来い」とだけ伝えて、カバンの中から教科書をぜんぶ抜いて、空いたスペースに二人分の私服を入れて駅へ飛び出した。飛び出すのなんて久しぶりだった。学校に行くときは、飛び出したりしない。けれど、海に行くときに人はやっぱり飛び出すのだろう。飛び出さなきゃいけない。晴れている日なら尚更。

 波野と駅で出会って、トイレで制服を着替えて、それからなんとなく、高揚しながら波野が「海に行こうか」って言った。発案はわたしだけど、こういうことは不満にならない。

 


 電車は終点の、海がある、海しかないらしい駅に着くまでの間に、どんどん人が減っていった。波野は、「本を読むときは、なるべく感心しながら読む方がいいんだ」とか「尊敬を忘れるとぼくら集中できなくなるんだ」とか言いながら外を見ていた。わたしもずっと外を見ていたから、波野のおしゃべりはあんまり聞いてなかったけど、「でも尊敬できない人の本はどうすればいいの?」とだけは聞いた。波野はクリクリの、あるいはギョロギョロの目をいっかい瞬いて、それから上を向いて、口をぽかんと開ける、しばらくして「読まない...しかないと思う」と、慎重に言葉を選びながら、言った。

 


 駅の改札を出ると、アスファルトは太陽の光を存分に吸い込んで凄まじい照り返しをわたしたちに浴びせてくる。バスロータリーの時刻表を見ると、一時間に二本だけ。海の匂いがする。けれど道路はふつうの道路だった。ヤシの木はない。

 「...あぁ」と、波野が呻いた。「どうしたの?」と聞くと、黙って携帯を取り出す。『母』の一文字と、鳴り止まない振動。電話だ。無断欠席、高校生、たった一日の逃避行。それだけでも罪になる。わたしは「ファミリーマート行こう」とだけ言った。携帯は鳴り続けてる。駅の近くのコンビニは、「フリーダムマート」だった。Fのマーク。わたしの携帯は鳴らない。昨日、両親は寝ていたなあと思う。ベランダから、なんとなく寝ているのを感じた。

 


 「フリーダムマート」の中は涼しくて、照明がすこしだけ茶色い。「ビーチボールなんてあるんだ」って波野が言っていて、海が近いことを予感させる品揃えだなと思う。

 「どうして海の近くのコンビニにはトランプが売ってるんだろう?」と聞きながら振り向くと、波野は携帯の電源を切っていた。それから、上を向いて、口をぽかんと開けて、「...」沈黙。考えてる、また、難しいことを。わたしはメロンパンとサイダーと小さなアメリカンドックを買った。426円。波野はすこし遅れて、レジに入って、千円札を出してる。彼の右手には赤い紙の箱だけがあった。500円のトランプ。「え、トランプ買ったの?」と、笑いながら言うと、波野はわたしよりニヤニヤして「わからないならやるしかない」とだけ呟いた。こいつは浮かれてる。波野はもう一度レジに入って、カップ麺を買った。このとき二人で、わざわざレシートを捨てた。証拠隠滅。

 


 「わかってるの?人生オシャカになるんだよ?あなたは学校に行くのが仕事なのよ?」と三連続で、昔、疑問文を投げかけられた。この疑問文は、形だけで回答を求めてないからわたしは「うん」と「ハイ」を駆使して不毛な会話を切り抜けた覚えがある。不登校児になりたかった時期。不登校のきょう、思い出した。

 わたしたちはバスロータリーの向こうに伸びる大通り(都会の大通りと比べると中通りくらいの大きさ)を歩き始め、路地を二回曲がって、一本の長いまっすぐな道路に出た。両脇にはガストや紳士服店があって、景色は家の近くとたいして変わらない。ただ、潮の匂いだけが、海の存在をほのめかしていたから、わたしたちは歩くことができる。

 「因果論。」と呟いた。原因があるから結果があるって、知ってる。学校に行かないからわたしの人生はオシャカサマ。波野は、「因果論。」というわたしの言葉に反応して頭をこっちに向けた。すこし嬉しそう。誰だって自分のすることや言うことに興味を持ってもらえたら嬉しい。

 「...あっ」と、波野がまた呻いた。でも、希望のこもった呻き方だったからわたしはすこし高い声で「どうしたの?」と聞き返したら、波野は真っ直ぐ右手を伸ばして、人差し指で道路の向こうを指した。「...壁?」「ちがう、堤防だよ。」堤防か。しかし波野は楽しそうだったから、わたしもなんとなく楽しい。堤防の先には海がある。堤防があるから海がある、なら、因果論だ。「ううん、それは物理学だよ」と、波野が言った。波野はなんだって知ってる。

 携帯が鳴った。「ねえ、大丈夫?」「先生心配してるよ?」「わたし、光一と話していいのかなぁ...?」疑問文が三つ。あの子、わたしのことを少しだけ好きなのかもしれない。と思った。わたしはあの子のことが少しだけ好きなんだと思う。大丈夫?と言われると嬉しい。誰だって自分に興味を持ってもらえたら嬉しい。波野は少しだけ早足で歩いてる。アスファルトの照り返しはいよいよつよく、空の真ん中に太陽が昇る。「ぁついのは、太陽光の角度の問題なんだ」とクレッシェンドした声がすこしだけ遠くから聞こえるから「お前文系だろ」とわたしが言うと、波野はニヤリと笑って、カバンから水を取り出して飲んだ。何がおかしいんだろう。楽しそうだから、いいけど。

 


 海は、思ったとおりに青くて広い。思ったよりきたない。堤防の上には潮の香りが満ちていて、太陽の光はわたしたちをギラギラと焼いて、少しだけ肌が焼けるのが嫌だった。波野はわたしの前を歩いて、砂浜に降りる階段を探してる。

 シャツの袖をまくって、少しだけ筋肉質な黒っぽい腕が見える。シャツの袖のボタンのところで折り返された袖が嫌にセクシーに見えて、わたしは頭をふるった。汗がまとわりついて、濡れた服が肌にくっつく。波野は急に止まって、丈夫な首を後ろに捻って「ここから降りられ、そうだ」とぶつ切りに話して、下に行ってしまった。カバンの中のサイダーはもうぬるいと思った。ラインに返信してない。両親からの電話はない。ねえ、興味を持って、心配して、先生、ああもう、光一、わたしは「おーい!」と波野を呼んで「俺たち、オシャカだなあ!」と叫んだ。波野は、ポカンと口を開けて空の方を見てから、少し黙って、「トランプやろうぜ」と言葉少なに、笑顔で言う。遠くから全身を見ると、波野の腰は細い。急に元気になったわたしはサイダーを飲み切ると、ペットボトルを下に投げて、「後で拾う!」と言い訳しながら砂浜に降りる。階段の残り数段をジャンプしたとき、アスファルトがわたしたちを照らしていて、これで人生オシャカになるなら、決して、ぜんぜん、悪くないなぁって思う。

喋ることすべてが物語になってしまう人へ

 田中小実昌が『寝台の穴』という短編に書いている意味を借りて言うなら、ぼくの書くことやはなすことはぜんぶ物語に他ならない。ぼくだけじゃない。あらゆる人がはなすことや書くことはほとんどが物語だ。

 ぼくの誕生日について、母が話したことは物語だけど、ニンゲン、いつも物語をしゃべってるわけではあるまい、とおもうだろうが、物語をしゃべってる者は、物語しかしゃべれないようだ。

 それも、ほんとは、物語ではないものが、自分にはあるんだが、口にでると、物語になってしまう、というものでもあるまい。物語をはなす者は、もうすっかり、なにもかも物語なのだ。

 (中略)

 軍隊はなんでも命令だから、というのも物語だ。ぼくは命令というものをうけたことは、一度もない。命令がくだった、というはなしはきいたことがある。れいの敗戦の放送のあと、総攻撃の命令がくだった、という噂もあった。どこを、どう総攻撃するのかはしらないが、そういう噂はあった。

 しかし、命令をうけた兵隊はたくさんいただろう。命令というものをうけたことは一度もない兵隊は、ぼくぐらいかもしれない。だけど、命令をうけたことのあるほかの兵隊ならともかく、そんなぼくが、軍隊はなんでも命令だから、などとは言えない。言えないのに、言うのは、やはり物語だ。

 (引用元:田中小実昌著『ポロポロ』中公文庫)

 文学への無限の愛と哀しみを、簡単なヒューマニスティックや物語として還元せずに描き出そうと、作者は苦闘している。その痕跡が、こうした言葉や、「物語」という概念のなかにあらわれている。

 と、こう書くと、たちまちのうちに田中小実昌の作品は物語のなかに回収されてしまう。「無限の愛と哀しみ」なんてものがあるかどうかはわからない。そもそも愛や哀しみをはかる手段はない。ない上に、わからないのだから、それをさも存在するかのように書いてしまうのは、インチキだ。言えないのに言うのは、やはり物語だ。

 ただ、現実を生きていると、人に通じることばはほとんどがインチキだと気づく。

 この間も「人間関係はぶつかり合いなんだから、すこし喧嘩したくらいで別れるなんて言っちゃダメだよ」というようなことばを発した。こんなのはインチキの最たるものだ。

 いま、小室直樹の『日本人のための宗教原論』を読んでいて、そのなかに、カトリック教会はキリスト教の本来の教義をゆがめ、聖書に書かれていないはずの天国や地獄といった概念や宗教的儀式を巧妙に創作し、人びとにわかりやすく布教した、ということが書かれている。

 キリスト教は啓典宗教であり、つまり神のことばである聖書がすべてなのだから、そこに書かれていない種々の賛美歌やサクラメント(キリスト教の儀式)といったようなものは逸脱であり、それは聖書からの逸脱でありつまりキリスト教からの逸脱であり、魔術であり、非合理であり、神のもたらす救いとはなんら関係がない、というようなはなしだ。

 これを読んで、びっくりしてしまったが、賛美歌やサクラメントもまた物語の一種だろう。これをやれば神が救ってくださる、という物語を創作し、その物語に人びとを引き込んだのだ。

 (人びとにわかりやすく布教した、とか、人びとを引き込んだ、とか、そういうふうに書くのもまた物語に他ならない。どれだけメタ的になろうと結局すべては物語になってしまうのだ。それを田中小実昌はむなしく思ったのだろうか?これはぼくの思考であり、これをもし、田中小実昌はむなしく思ったためにそこから逃れるための創作を繰り返した、と書いたら、物語になってしまう。)


 ぼくはひと抱えの野菜を、冷蔵庫のいちばん下にある野菜室に入れながら、さいきん、坂口恭平が野菜をつくっていることを思い出した。

 坂口恭平は、爪のあいだに土が入って、黒くなっている写真をツイッターに上げていた。

わかんないね

 耳にできた大きな腫れものを右手でいじくりまわしていると、赤い汁と一緒にプチッと音を立てて、正確には音を立てるような勢いでつぶれた。昨日は帰り道でカエルを踏んだ。幸いにして彼は死ななかったけど、あの出来事は彼の寿命を大幅に縮めたんだろうなぁ。

 長かった梅雨が明け、八月。日は高く高く昇り、ぼくはといえば道端に突っ伏してしまいたいくらいの衰弱具合だ。太陽がなければぼくは生きられない。太陽がありすぎても生きられない。吸血鬼はなぜ、太陽に当たると死ぬのだろうか、と考えた。体のなかで起こる化学物質の反応かもしれない、それとも脱水症状なのかな。理由も無く灰になるのがいちばん美しいな。

 道路は太陽をやたらに激しく跳ね返し、「暑すぎる...」とつぶやくおじさんが首に下げたミニーちゃんのタオルで額を拭いた。ミニーちゃんのタオルのピンク色は、おじさんの汗を吸って一部分だけ濃くなる。

 「樋口一葉は気位が高いからすきだなぁ」と、緑色のメッセージが届く。ぼくは携帯をみながら歩くことにした。歩きスマホ、いまこの瞬間、交通事故で死ぬリスクが数パーセント上昇する。ぼくが誰かと会う、喋る、歌をうたう。するとぼくの中にあるかもしれない病原菌が飛んで、幾らかのパーセントで人に感染して、そのうちの何パーセントかは死ぬ。

 ぼくは原因であり、結果でもある。アメーバと一緒だ。気位が高い、なんて言葉を今まで使ったことがない。気位が高い、ことはメッセージの向こうの彼にとって良いことである。気位が高いって、プライドが高いってこと?プライドとはいったい何だろうか。誇り、の訳語だけど、誇りという言葉から受ける印象よりもプライドの四文字からは汚れた印象を受ける。プライド差別だ。気位、プライド、誇り、プライドだけ価値が貶められてる。

 この三つの意味は関係している。ネットワークのようにして意味が繋がっている。意味としてカバーしている範囲が被っている。では、それぞれの明確な違いとはいったいなんだろう?存在するのだろうか?

 今のところぼくは、存在しないと思った。言葉に実態はなく、意味のネットワークの中に放り込まれたそれぞれの言葉が、外側から囲われて形を作られているようなイメージが頭のなかに浮かんだから。

 言葉に実態はなく、関係性だけが意味を担保している。かっこいい言い方ができたから、とりあえず満足。

 僕は樋口一葉に会ったことがなくて、彼女の気位が高いかどうかは知らない。ラインを送ってきた彼もまた樋口一葉の人となりについて、たぶんそんなには知らないだろう。

 ただ、彼女が原因となり、ぼくの思考の上のほうに、「気位が高い」って言葉を持ってくることができた。また一つ感染した。樋口一葉とラインを媒介にした、言葉の感染。ニュースサイトを媒介にした理論の感染や、資本主義を媒介にしたキリスト教の感染もよくある。感染するのは病原菌だけじゃない。

 気づいた。夏の日差しが照るアスファルトの上で、呆然としているかの如く、立ち尽くしていた。おじさんもミニーちゃんもピンクも緑もなく、ただセミだけが音を保続させている。

 これだけ長い時間ずっと音を鳴らし続けるというのはきっと相当に大変なことで、知能で優れているからといってセミに勝ったわけではないなと思う。ぼくは博愛主義者でもなければ相対主義者でもなく、ただ単純にそう思っただけだ。だから人間が尊いとか、自然が尊いとか、そういう結論を見出すことはできない。

 意味もなく思う。意味もなく言う。そういうことが、最近許されない。自然は尊い、命は尊い、常識がどうだとか、感染するリスクを考えての行動だから許されるとか、普段なら良いけどねぇ、とか、たぶん僕はストレスが溜まっているんだろうなぁ。誰がどうとか、どういう意味で、とか。考え、理由、自主性、積極性、合理性。。。

 とりあえず汗をかきすぎたので、水分を取る。そうすれば死ぬ確率が数パーセント下がる。自動販売機を探したけど、水が130円だったのでコンビニへ行くことにする。

小島信夫の二十二歳、梶井基次郎の二十三歳。保坂和志『小説の誕生』を読んで。

 私たちはたとえば、カフカの日記を読んでおもしろいと思うのだが、その日記を書いたときのカフカは二十代前半だったりする。宮沢賢治の享年は三十七歳で、満二十七歳で出版した『春と修羅」を、その後に生まれた者たちは七十年八十年の生涯を通じて読んだりする。偉大な作家というのは出発点からすでに偉大なのだ。

 その「偉大」とは「異質」ということだと私は思う。「宮沢賢治は最初から完成されていたのだ」という言い方をする人がいるが、私はそうは思わない。「完成されていた」のではなくて「異質だった」のだ。 つまり、違ったものを持ち込んだのだ。文学というのは、絵や音楽のように物として見えたり聞こえたりするものではないから、それを真似たり消化したりするのが事のほか遅く、百年くらい経っても「異質」が「異質」のままなのだ。

(引用元:保坂和志『小説の誕生』新潮社)

 


 小島信夫は二十二歳で『裸木』とい小説を書いたのだが、彼が学生だったということを考えればこの作品は習作と位置付けられる。けれど実際にはすでに小島信夫という作家の「偉大さ」が「異質さ」として現れていた。ということを説明した文章だ。

 二十二歳という文字を見たとき、僕の頭のうしろ側はぼーっと熱くなり、瞳孔はすこし開いた。

 「偉大な人間が初めから偉大なのだとしたら...。偉大じゃない人間は初めから偉大じゃないことになる」

 などと言いながらベッドの上でぼくの筋肉は緊張して、唾液の量が減った。怒られたときみたいに、心拍数が上がった。初めて大声で怒鳴られたときのことを覚えているだろうか。ぼくは覚えている。あれはたぶん小学二年生のときで、廊下を走っていた時に「何やってるの!!」とかそんな感じで怒鳴られたのだった。

 サーッと体の内側が寒くなるような感覚がして、体の中心に向かって筋肉は緊張し、頭はギューっと収縮したような気がした。妙に冷静で、これから怒られること、今まで楽しかったこと、自分が何かに怯えていることがはっきりとわかる。そして今自分がひどく力がなく、情けない存在であることがはっきりとわかる。それは怒られる事よりもかなしい。

 血の気がひき、冷や汗をかいた。言葉にすればそれだけのことなのだけど、現実としての感覚はなかなか不思議で、それ以来ぼくはなにか失敗をしたり怒られたりすると、血の気がひき、冷や汗をかいてしまうようになった。

 「あれが恐怖ということなんだろうな」と、今なら言える。二十二歳のぼくなら、小学生の自分に対してわかったような口をきいたっていいだろう。いや、小学生のときにわかっていて、今わかっていないもの、それはつまり失ってしまったものなのだけど、そういうものもあるはずなので、簡単には言えないけど。

 何が言えるか言えないかはわからないけど、重大な問題がひとつあってそれだけはわかる。

 ぼくは二十二歳になってしまった。

 小島信夫が『裸木』を書いたのが二十二歳、梶井基次郎が『檸檬』を書いたのが二十三歳、村上龍が『限りなく透明に近いブルー』を書いたのが二十三歳。

 ぼくは二十二歳。

 書いた小説、ゼロ。コンクール受賞歴、入選一回。作った曲数、十曲くらい。数でどうこう言えるのはブログの記事数だけで、資産などない。

  「偉大な人間が初めから偉大なのだとしたら...。偉大じゃない人間は初めから偉大じゃないことになる」

 この言葉をつぶやいたとき、僕の身体の中ではさーっと血の気がひいていた。

 偉大さとは異質さである。

 しかしおそらく、異質であるかどうかは本人にはわからない。

 なので、ぼくが今、異質=偉大であるかどうかはぼくにはわからない。

 ただ、異質であることを狙って書いた文章は確実に異質ではない。相対的に異質であることを狙っている時点で「普通」のコードに縛られている。例えばいまぼくが、朝起きたら一枚のタオルになっていたけど意識だけは残ってる、みたいな小説を書いても、一般的な普通のコードと同一線上で比べて異質なだけで、そんなのは異質でもなんでもない。

 「というかカフカの焼き直しだ」

 と、気づいた僕は部屋の電気をつけた。

 頭の右側をかいて、体を起こす。足を抱えるようにして横向きに眠っていたので、足が固い気がする。伸ばす。外は暗い。スマホだけが明るかった部屋の全体が照らされて、雑然とした部屋があらわになり、恥ずかしかった。

 「どうしてぼくは恥ずかしいのだろうか」と、口にしてみたが、やはり言葉は空気をふるわせて音になる。

 「ぼくは二十二歳になってしまったが、まともに文章も書けない。小島信夫にしろ梶井基次郎にしろ村上龍にしろ、異質とか偉大とか以前にそもそも文章がうまいけど、ぼくは文章が下手で、人に伝わるように書く、なんていう基本的なこともできないってことは作家になりたいなら作家としての基礎体力すらないのじゃないか」

 と、心で思い描いていると外からバサバサと鳥が羽を開く音がした。

 「作家になんてなりたくない、ほんとうは、何もしたくない。それでいて、偉大であって異質でありたくて、モテたい。退屈はきらいだ。何も楽しくなんかない」

 言葉を音にすると、みぞおちのあたりが少しだけゆるまった。心を胸にあると感じたむかしの人は正しいのかもしれない。なにか悲しいことや上手くいかないことや苦しいことがあると、胸のあたりが緊張する。血の気が引くときに、頭がギューっと収縮していくように。

 いまのぼくにだって偉大な小説が書けるかもしれない。ポール・オースターのような?村上春樹のような?「笑っちゃうなあ」と口にした時のぼくは口の端っこに笑みを浮かべていたからまるで映画のワンショットみたいだった。

 「目を閉じて、何も考えないでいるしかない。苦しみはいつか去っていく。それはわかってるけど、いまある苦しみがつらいことが問題なんだよなぁ」と思いながら、酒を飲みたがる人の気持ちとは、自分が生成する言葉のしょうもなさや、限界に気付いた人なのではないかとも思った。

 自分の思考や衝動がなにか別のかたちに変化していくことの、たのしさ。この身体やこの思考様式、この、偉大ではない言葉の羅列をしてしまうぼく。

 酒を飲めば、そういったものから少しだけ離れることができる気がする。マインドフルネスだって同じことだ。こんなこと言うとイェール大学の研究者に怒られてしまうかもしれないけど。

 当たり前のことしか言えない、当たり前のことしかできない身体を持ち、二十二歳。コンプレックスに焼かれる。

 「退屈さや、つまらなさが不安に変わっていく」言葉にしたら、少しだけ胸がゆるまってくる。

ゆれる時間と文章

 「とにかく俺は若造で、物を知れば知るほど知らないことにぶつかる」

 ベッドで横になりながら呟いてみた。対象のいない言葉は空疎だがそれでも空気を震わせてちゃんと音になる。

 青と白のチェック柄のパジャマを着て、十四時三十分。自分以外の世界はいわゆる普通の回りかたをしているようで、アフリカでは夜か明け方で、鹿が飛び跳ねたりギザギザの広い葉っぱが風に吹かれてガサガサ音を立てるのを半分埋まったミーアキャットがみていたりする。ぼくの部屋の向かいにある自動車整備工場からは車のボディを磨くときのような金属がこすれる音がするけれど、実際にボディを磨いているのかはわからない。

 「自分の書きたいことを書きたいままに書くことのグロテスクさについて考えていたんだ」

 誰にいうでもなく発した言葉はきちんと音声になっていたから、ぼくは確かに喋っていたらしい。一人で部屋にいると、思ったことと喋ったことの境い目はほとんどないから、音声だけが頼りになる。

 昨日からつけっぱなしのパソコンの電源ボタンがわずかに光って、生きていることを主張しているみたいだと思って、生きているという比喩を「活動しているように見えるという意味で使っているなぁ」と、そこだけ口に出して、パソコンを放置して部屋を出た。

 廊下をあるく、数秒の間で、しかし言葉は生まれた。

 ぐるぐる回る思考を止めるために自分の生み出す言葉の外側に出たいと思ってTwitterを開いた。「言葉は無限に現れてくるから。」

 『感情のままに喋っていいんですか?』

 『男性だからといって差別していいわけじゃない』

 「大学生の生活は守られるべきだな」と思った。Twitterの恐ろしいところは、ひとつの投稿をみた後、必ず自分の解釈や、言葉の生成があるところだ。

 「ひとつの投稿が140字で完結してしまうために、それを理解するためには自分の解釈を差し挟む必要がある」

 ぼくはそんなことを君に話そうと思いながら、洗濯機を横目で見る。君は多分どこかのお店でぼくの向かいに座りながら、

 「安易な回想を文章のなかに入れるのは果たしていいかわからないけど、想像力について話したね」

 とか言いながら緑色の液体を飲んでいるだろう。やけに長い羽のついたプロペラみたいな空調が天井をゆっくりぐるぐると回っているようなカフェで、店内は少し暗く、太陽光を取り入れているから不健康な感じはしないようなカフェでそう言うだろう。

夏がふたつ

 「わかって欲しいって気持ちが強くて、それであのこのことが嫌いになって」

 おれはタコのジョーを殴りながら聞いていた。リビングには壊れた自転車と、植木鉢と、電灯があって、電灯は灯りがつかないまま上空に放置されていたので部屋は真っ暗ななか、女が喋っている。

 「あの子は考えるのが嫌いな子で、一瞬たりとも考えるのに耐えられないみたいなのね」

 冷たい雨が外に降っていたが、窓も玄関も閉め切っているから関係ないことだ。俺の腕に押さえつけられてジョーは息も絶え絶えの様子でヌメヌメしている。奴のスミで俺の腕は真っ黒だけど、俺の腕はリズミカルに殴り続けるのをやめない。ねえ、どうして、そんなところにいるの?と、小さなころ言われた言葉が頭に反響する。

 頭のなかで俺は公園の石造りの滑り台の上にいて、空からは太陽が少し照っていて、雲が通り過ぎるような夏の午後の暑い盛りだった。オレンジ色で描かれそうなほどエネルギーに満ちた街中はゆらゆらと陽炎のなかで揺れまくっていて、俺は汗をだらだら書きながらまとわりついてくる水蒸気の匂いを嗅いでいた。水蒸気は少しだけ酸っぱい匂いがした。その女の子の脇の匂いはもう出始めていたころだったからかもしれない。光化学スモッグかもしれない。

 「光化学スモッグがよく出る街だったなぁ」と言うと、女は突然話すのをやめて体育座りになってしまったので、俺はヌメヌメ黒く光る腕をジョーに叩きつけながら滑り台のうえにすぐに戻ることができる。

 まだ小さな体で過ごしていた俺は滑り台の頂上で倒れていた。空に目を向けて、頭はもうなにも考えられないほどにグラグラして、喉は乾いた。いま思えば熱中症だったのだと思う。

 「ねえ、どうしてそんなところにいるの?」

 「おれもう家に帰りたいんだ」

 「道路の向こうを見てごらんよ、ゆらゆらしてて帰れるわけないよ」

 陽炎、という言葉を知らない俺たちは道路の向こうでアスファルトが揺れまくってるのを見て、帰れないことを悟った。悟ったからどんなに暑くたってぶっ倒れていたんだ。

 公園にはいくつもの遊具と、数人の子供がいて、それは非常に広いように思えた。シーソーの片側に男が乗っていて、彼が乗っている方向にシーソーは倒れっぱなしだったのが見えた。俺はどうしてここにいるのか考えようとしたけど、頭がぼんやり溶けていたので言葉にはならなかったがそれは幸せなことだった。その日は夕立ちが降って陽炎は消えて、俺は家に帰ろうと思えた。生温かい雨が降る公園に取り残されたのは俺と、自転車だったが、そいつは壊れていた。その自転車が、いま真っ暗な部屋の中にある壊れた自転車の由来かと言われると、もうわからないほどに時間が経ってしまった。

たったの三日もあれば世界は変わるけど、世界が変わったことにはだれひとり気づかない

 2020 7/6

 朝起きると、8:00くらいだったのを覚えている。昨日はたくさん歩き、たくさん食べてから催眠誘導を聞いて、解催眠を聞かずにそのまま寝ついたのでずいぶんと深く眠ることができた。睡眠時間は少ないもののすっきりと目覚めることができて、僕はどうやら運動、食事、睡眠、そして少しの趣味があれば基本的に快く生活ができるみたいだ。

 朝起きて、食事をしてから髪の毛を整える。youtubeで美容師がやっているセットの動画を見ながら髪の形を整えるけどうまくいかない。何気ない動作の端々がきっと大切なのだろうと思い、何度も巻き戻して見たけどどうやっても髪の毛が跳ねるか、クシャっとするか、ペタンと落ちてくるかの3パターンしかない。いい感じに立たせたいのになぁ、と思いながら諦めて家を出る。

 行きがけにウイイレをやる。この間立ち読みした『必ず食える1%の人になる方法』という本の最初のほうに、いくつかの質問と、それによって自分がいまどのあたりのボリューム層に分類されるかを示すフローチャートがあり、その最初の質問が「電車のなかでゲームをやる習慣がある」だった。ぼくはyesと答えるべきなのかもしれないのだけど、そのときは見栄を張って、誰への見栄かと言うと、ほかでもない自分に見栄を張ってnoと答えた。

 1%と言ったらすごい希少価値のように思えるけど、数で言えば百人に一人ということで、百人に一人というくらいの特殊性ならどうということはなく、おそらくどの人も全て百人に一人くらいの専門性や個性のようなものを持っている。書籍のタイトルの1%は比喩というか、大きさをあらわすイメージでしかないのだから、この指摘は当たらないのだけれど、思った。

 ガチャを引いた。課金をせずに引けるガチャというのは嬉しい。それで良いのが出たから、なおさら嬉しい。(実在の人物をもとにキャラクター化したものを良いとか悪いとか言うのは複雑だ。心苦しいわけじゃないけれど、複雑だ。)一時間半くらいは棒に振ったって良いのだ。人生は長い。しかし感情は短く過ぎ去るのだから、心地よいと感じるときにやったほうがいい。

 ぼくは『体癖』をみる限り、四種体癖というやつだ。体の左側に体重がかたより、内向的で細身。副交感神経が優位であり穏やかな印象で、感情でものごとを判断するが、感情が長くはつづかず、しかし消えるわけではないので、頻繁におなかを壊すことで溜まった感情を処理する、そのような人らしい。ひとことで言えば、感情で判断するのに感情が長く続かない特性だ。体癖論というのはどこまで正しいのかはわからない。論と言いつつ、偏見の集合体のようでもあり、ともすれば体型差別にもつながるのでポリティカルコレクトネスには反するのだけど、けっこう当たっているから面白い。占いのようなものなのか、科学と占いにどれだけの差があり、臨床的知識の集積は統計学的ではないからと言って無根拠だとは言えない...みたいなことをぐるぐると考える。

 科学は好きだ。ただ、科学的根拠がないからと言って無視するにはもったいない知識が世界には多い。本を読んでいるとそう思う。超能力者と村上龍が対談している本を読んだとき、科学的に解明できないけど、科学的に現象を捉えることはできるというような、たとえばテレパシーや手かざし医療みたいなことが紹介されていて面白かった。

 とにかく、ぼくはロジックでものを考えるときと、感情でものを考えるときの両方があるらしく、また、ロジックが働くのは感情的に飲み込めた場合に限るようだ。だから、好きなもの、できると思ったもの、興味のあるものを分析していくのは得意だけど、感情的に無理だと思ったり受け付けないものを分析することはできない。おそらく、第一印象を感情でなんとなく判断するから、文章を読むのが非常に遅い。好き嫌いを決めて、快不快を感じてから、好き、かつ快に分類されたものに対してだけロジックが働く。本来は、感情のひとだ。

 これは日記だった。日記だから一日のことを記そう。学校に行ってレッスンに行き、食事をしてからお金を下ろして振り込み、それから八時間くらい遊ぶ。

 ぼくは好きだと思った対象に対して時間をつかうのを惜しまない(嫌いなものには一秒たりとも時間を使いたくない)ので、本気で遊ぶし、八時間くらいは全然つかう。お腹もすく。帰ってくる。お風呂に入る。次の日がくる。いまは7/7七夕の0:01だ。

 七夕だ、と思う。

 考えたのはこのくらいだろうか。感情が満足することが大事らしい。ぼくは感情的な人間だ。実は、いままでは自分のことを非常にロジカルな人間だと思っていた。だから、本が読めないのは何故だろうなあと思っていたのだけど、感情が伴ってないからだ。面白いとか興味あるとか思わないと読めない。当たり前かもしれない。ぼくはいつだって、当たり前のことを再確認し続けている。ぼくはほんとはロジカルな人間じゃないのに、ロジックが好きになったからロジカルになった後天的ロジカル人間だから、先天的ロジカル人間には明晰さや丁寧さや一貫性という点で敵わない。

 先天的とか後天的とか、どっちでも良いじゃんと言うひとはいるだろうけど、僕にとってはどっちでも良くない。とても大事なことなんだ。人によって大事なことは違う。それをふと、忘れそうになる。ロジックやファクトより、感情や印象や頻度が大事だと思う人がいる。どちらが絶対的に正しいというわけでもない。こんなこと、忘れても良いんだけど、どうしてか忘れないようにしている。

 


 2020 7/7

 今週、なにも予定がなく休めるのは水曜日だけなのだけど、課題が積み重なり、やりたくないことや、使いたくない時間を人のために割くことを、いつのまにかしてしまい、心は疲弊している。

 休むとは、疲弊した心を回復させる行為で、その休みは水曜日にしか来ないのだけど、水曜日が来たってきっと心は回復しない。だからぼくにはきっともう水曜日が来ない。

 来ない水曜日を追いかける。月、火、その次はいったいなんだったのかわからない。わからないけど、気づけば一日は過ぎ去っている。ぼくは自分で使えるはずの時間や、生きている実感のうちにある人生とか、そういうものを取り戻したい。それはすべて水曜日にあるらしいのだけど、水曜日はいったいどこにあるのだろうか。もしかしたら新宿と池袋にあるのかもしれない。さいきん、夜の街に人はいない。

  一昨日、東京の夜の通りを、公明党のポスターがひらひらと舞っていた。そのときも、ひとはほとんど見当たらなかった。一番ひとが多いのは、朝と夕方の電車です。

 なにが安全かはわからないし、なにが安心かもわからない。「これをしておけば安心ですよ」と言われたとおりに動くと、ぼくは心がざわざわしてきてしまう。基本的にいまのシステムはぼくにとって息苦しく生きづらいってことを、学校がはじまってたくさん思い出した。

 これは日記だった。日記だってことを忘れるけど、日記とは感情を記しておくものかもしれない。なにが起きたか、ということよりもどう思ったか、どう考えているかを優先するもの、なのかもしれない。

 今日は12:40に家を出なくてはいけないから、なんとか11:00ごろに起きた。非常に体が重かった。信じられないくらいに。シャワーを浴びる。暖かい水を体にうけると内側から筋肉がほどけていくような感じがして、自分の体がずいぶんと冷えていたことに気づく。冷えていると、やる気が出なくなるのだろうか。シャワーから出る。しかし重い。頭が重い。体はもっと重い。こういうときはマインドフルネスだ!と思い、ベッドで横になって瞑想をする。そのうちに寝てしまって、12:00にベッドから這い出す。学校に行かなきゃならない。

 嫌なことだらけだ。嫌なことだらけだから、烈火のように怒ることだってできる。でも、感情を発散させて、いったい何になる?明日の予定もわからない。一年後、生きてるかどうかもわからない。なのに、来年の予定が立てられるのだろうか。大学四年生とはそういう時期だ。神かなにかなんだろうか、みんな、なぜ世界がいつまでも同じようにまわると思うんだろう。

 学校に行き、授業を受け、帰る。ソーシャルディスタンスを保ったオペラの授業なんてできるわけがなく、ポーズのとりあいを学生も先生も繰り返す。歌うとき遠ざかっていても、指導するときに近くにきたら意味ないでしょ、先生。そんなこと、誰でも分かってる。形骸化したポーズなら、とらなければいいのに。そんなことは言わない。ぼくは空気の読める大人だから。

 「やらないでどうするの?」「なんとか再開させなきゃなんだから」みんな言う。動いてないと不安なんだろう。やらないでなんとかなる方法を考えた方が楽じゃない?立ち止まって休んでもいいんじゃない?そんなことは言わない。ぼくは空気の読める大人だから。

 帰る。セネカの『人生の短さについて』を読む。百円で買えたのが嘘みたいだ。良い本だ。みんな建前の共有ばかりで嫌になる。嫌なことは嫌だとなぜ言えないんだろう。ぼくは、なぜ言えないんだろう。

 議論がめんどくさいからだ。戦いが嫌だからだ。表明して、戦わなければ良いのだけど、それがなぜかできない。説得されたくない。聞く気なんて元からない。誰だってそうだ。聞く気がない同士が会話したって、喧嘩になるだけだ。だから、従順なフリををして従わなければいい。みんな、一時の自分の感情にしか興味がないから、言ったことが行われているかなんて、ほとんど関係ない。確かめない。いい社会だ。最近では、記録に残すことさえしなくていいらしいのだから、なんでもやってしまえばいい事になった。やったもん勝ちのシステムは、嫌いじゃない。あとは建前を捨てて、やったもん勝ちが正義だと正式にアナウンスすればいい。弱肉強食、良いじゃないか。いつでも参加しよう。自分から命を断つ覚悟だってしよう。

 その覚悟も、建前を捨てる気概もない人間はきっと、弱肉強食の世界で生き残ってはいきづらいだろう。虚飾、欺瞞、嘘がまかり通る世界なんて間違ってる!とほんとは言いたいんです。この辺りの記述は。

 セネカの文章を読んでいて驚くのが、

 最も大きい権力を持ち、高い位に登った人々の口から、暇を求め、暇を称え、暇は自分のどの仕合わせにもまさる、と言う声が思わず漏れるのを聞くことがあろう。彼らは往々にして、自分のいるあの高い頂から、もしも安全に降りられるならば降りようと願い求めるのだ。

(引用元:セネカ著 茂手木元蔵訳『人生の短さについて 他二編』岩波文庫)

 こういう表記だ。古代ローマの話とは思えない。2020年の世を生きるぼくが読んでも生々しく、リアリティをもって迫ってくる。紀元前の時代から、忙しさに埋没している人々はいたらしい。

 人生を支配できると考えるひとは、自分の人生の予定を立て、そのとおりに進んでいくことをよしとする。時にその予定を人生設計などと言ったりするけど、人生は設計できるものじゃない。

 赤い公園の『今更』という曲を思い出した。「生き急いでったやつらを祝福できるかな今更」。

 生き急ぎたくない。けれど、税制などを考えると、生き急がない人間に対してこの国やこの社会は風当たりが強い。就職すればとりあえずなんとかなる、というのは強くわかりやすいメリットだ。その事実が人々を就職に駆り立てる。ブラック企業が無くならないのもわかる。

 でもまあきっと、フリーターでもとりあえず生きていくことができる。なんとかなる。死ななければ。

 自信のある無しには関係ない。

 自分は現に存在する、自分で自分を消す気はない。存在するのだから、やすやすと消すわけにも行かない、無理に消そうとしたら大きなコストがかかる。

 以上の理由から、生きている限りなかなか死なないと結論づけられる。死ぬつもりがなく、生きていたいなら焦る必要はない。一部の人にとっては残念かもしれないけど、税金を払わなくたってひとは死なない。ご飯が食べられないと死ぬけどね。

 非国民は生きる、生きるから非国民なのだ。非国民が死に絶えたとき、新たな非国民集団が見つけ出されるだろう。そうして暴力は続き、人口は減っていき、人類は衰退する。

 これは日記です。

 日記とは寝る前に書くものだと、そう思っていた。一日をふりかえり書く文章である。と定義していたからだ。それでは、寝るとはなんだろう。眠りという現象は眠りとしか言えない。眠りはやってくるものだ。眠りは動物の身体に記された自動的な現象で、眠りの前に僕らは受動的ですらある。では、能動的に寝るとはどういうことか。

 日記を書く時間である、寝る前とはいつだろうか。それはきっと寝ると決めた瞬間から始まる。であれば能動的に寝る、と言う時、ぼくらは一日を閉じようとしている。できたこともできなかったことも呑み込みつつ、様々な理由で(疲れなど)一日をここで終わらせる覚悟を持っている。

 であれば、日記を書くことと一日を終わらせる覚悟を持つことは関係が深い。ぼくは一日を終わらせるために日記を書く、寝るために日記を書くのだと言うこともできる。日記を書いた瞬間から一日の終わりに向けて身体は動きだしている。ぼくは今日の18:00ごろに日記を書き始めた。そのときにはもう一日を終わらせたかったのだろう。

 ぼくに水曜日はこない。もはや日曜日は安息の日ではなくなってしまった。絶対の安心安全、大地母神のような、安息。そんなものは存在しない。全てが融解し、一つになる、カタルシス。そんなものは存在しない。どんなに心地の良いセックスだって、明日になって残るのは記憶と疲れだけだ。

 眠りは、安息じゃない。マインドフルネスも安息じゃない。どんなに疲れていたって、生きている限りは生きていくしかない。そう簡単には死なないし死ねない。人生は設計できるものじゃないから。ぼくは、死ぬまでは生き続けようと思う。生きるつもりで人生と相対していこうと思う。

 


 2020 7/8

 どんなに長い間彼らは銭の勘定をし、あるいは陰謀をめぐらし、恐怖を抱き、人の機嫌をとり、人から機嫌をとられ、あるいはどんなに長い時間を自分や他人の保証でふさぎ、あるいは今では義務とさえなっている酒宴でふさいでいるか。これらをいちいち考えてみるがよい。

(引用元:セネカ著 茂手木元蔵訳『人生の短さについて 他二編』岩波文庫)

 「今では義務とさえなっている酒宴」という言葉。古代ローマ時代から、酒宴は義務だった!これからも義務であり続けるだろう。会食により心をゆるめるぼくらは、会食により機嫌をとり、機嫌をとられ、好感情の名の下に自分の時間をどんどん失っていく。

 飲み会出たくない若者は昔からいたんだろうなぁ。人間は成長しない。少なくとも2000年間くらいじゃどうにもならないというのはわかった。今週は、皮肉な気分です。

 朝の9:00ごろに目が覚める。すっきりと目が覚めて、昨日まで感じていた体の重みがないことに気づく。今日はやすみのひ。薄々感づいてはいたけど、あの重みはストレス故のものだったのかもしれない。

 本を読み、10:30ごろに、しなくてはいけない電話をかける。そのストレスからか、文章をひとつ書き、食事をする。牛肉と野菜と米と味噌汁。

 13:00ごろにもう一度眠る。何も考えなくていい。だから眠る。ローザ・ルクセンブルクのような言葉を夢で聞くけど、どんなのだったか覚えていない。ずいぶんと長く夢に滞在していた気がするのだけど、15:30ごろに起きる。

 音楽を聴き、歌を歌う。ロッシーニプッチーニ 。声楽には一つの母音で音階を歌うアジリタというテクニックがあり、ひたすらやる。どうやら腹横筋と内転筋を使えばうまくいくみたいだ。

 https://youtu.be/SIfz8fNQw0U

 https://youtu.be/NBL4nleKGaQ

 高い声を出すときは身体を反ると出やすい。きちんとした反り方とそうでない反り方があるのだけど、その具合は個人差があり、また勉強する言語によっても、それぞれの師匠によっても差があるので、すぐにダメと言われる。ぼくの場合は反りすぎだと言われるけど、見栄えで歌を歌うわけじゃない。やっぱり音がいちばん大事なのではないかと思いながら今日もたくさん反る。

 二時間ほど歌を歌い、お風呂と食器を洗って羊羹とポテトチップスのり塩味を食べて、お風呂に入る。気づかないうちにかなり疲れていたみたいで、ベッドに戻るなり寝てしまい、23:00に起きて、日記を書いている。

 今日はかなり時系列順にかけた。特に考えたことがなかったからだろう。ストレスなく過ごせる日々は、記録してもしなくても同じかもしれない。それでも書く。日記とはいったい何なのだろうか。謎に迫るためにも書く。

 自分がせっかちであることに気づいた。生き急いでいる。お金が欲しい。認められたい。能力が欲しい。こういうのを欲とか、煩悩とか言うのだろうと思う。煩悩にあふれせっかちな人格を持っている。

 しかし、本当に自分がやりたいことは何かと考えると、たぶん、新しいものを作りたいのだと思う。新しく感動的で広がった世界を自分の手で掴みたい、というか、自分の創作物を通して考えたいというか、言葉にできないワクワクした感じがそこにある。

 新しいものを作るにはいままでのものを知っておく必要がある。だから、歴史を知らなくてはいけないし、過去の作品を、人間を、絶滅した動物を知らなくてはいけない。しかし人間はすべてを知ることはできない。新しいものや突出した人間が出てこないと言われて久しいけど、それは当たり前で、新たなことをするのに知るべき情報の量が増えすぎていて人間は追いつけない。

 知るべきことはある。しかし知ることはできない。知るためには長い長い時間が必要になるけど、ふつうに、つまりお金を稼ぎ、ものを買って食べて着て遊んで生きようとしたら、そんなに長い時間はない。人間には長い時間が残されていない。しかし、積み上げられ整理されたたくさんの情報は人間の長い時間を求める。

 このせっかち⇆長い時間という対比が、あるいはジレンマがあるためにぼくは新しいものを作ることができない。何をやっても中途半端に感じられてしまうために、新しいことができない。情報と向き合い、集中しているときにあるドライブ感や、快感を常に持って暮らしていきたいのだけど、そうすると社会的には死を余儀なくされる。

 マルクスは完璧を求めたために、ついには資本論を完成させずに死んでしまった。そう聞いた。マルクスの時代ですら、短い時間と長い時間の対比は存在し、そのジレンマに人々は悩まされていた。良い作品、素晴らしい作品を作るということは、情報が求めるだけの時間を与えてやることであり、作者は人間としての短い時間と、情報の求める長い時間との間のジレンマと戦うことになる。

 忍耐とか、時間を使うと言ってしまえばそれで終わるのだけど、事態はそんなに単純なことではなく、ただ耐えればいいということではない。集中し続ける必要がある。情報を集め、その全体を手中に収めた上でさまざまな形に文節化し、それを配置していく。口で言うのは非常に簡単だけど、これはほぼ無意識の思考の上に行われる作業であり、体力と精神力と時間を使う。その間いわゆる社会的な生産なんかしている暇はなく、集中力の続く限り、一見、狭く短い視野でみたら無意味にも見える作業に没頭していくことになる。作者の不幸は、それが一見無意味に思えることを知っていることだ。また、自分自身にもそれが一見無意味に見えてしまうことだ。この無意味であること、もしくは無意味に見えることを無駄だとしてしまう価値観そのものに問題があるのだけど、現在の社会に生きる僕らはこうした価値観を発揮せずにはいられない。社会は人間を物理的に拘束するけど、精神的な拘束は物理的なものよりさらに強い。

 具体的な行動としては、ながら行動をやめ、目の前のことに集中するということだ。これがなかなかできない。ほんとうにできない。しかしやってみるとそこには快感がある。そこに快感はあるが、何かが残るわけではない。作品とは快感やドライブ感の後に偶然残っているものじゃないかと思う。実際それが生み出される現場にあるのは作者の生きた運動だけだ。例えば何かを読む、見る、書く、歌う、考える、とにかく生きている。作者はそこで生きているだけで、集中していることがつまり生きていることで 、作品はその結果として作られるから、半ば自動的に残っているものだから、作者が作品のことをロジックでうまく説明できなかったりする。そういうことはよくある。

 作品を作る瞬間の運動が、それが真剣であればあるだけ、その時の快感の量は大きく、また苦しみや不安の量も大きく、しかし場合によっては素晴らしいものが出来上がる。そんな気がする。必死に、真剣に、高揚する。その感覚を作品は受け継ぎ、その感覚を人に与えるために、すぐれた作品は快感を与えるのだろう。

 優れた作品を作りたいし、時間が欲しい。作るというのはこの場合比喩的な使い方で、必死に、真剣に一瞬一瞬の時間を感じられるような時間がたくさん欲しいということだ。脳がボーッと熱くなって心がワクワクして体が自動で動いているような錯覚を得られるような必死で真剣な時間が感じられるような、そんな生きいる感じを少しでも多く感じたい。疲れるし、めんどくさいけど、感じたい。

 ぼくは本を読むことや文章を書くとき、楽器を演奏するときや歌うときにも、ふつうの社会的な人格を脱ぎ捨てた身体的な快感がともなう。その時はだいたい呼吸が荒くなり、深い呼吸と浅い呼吸を繰り返し、目は大きく見開き、時に身体が火照って、考え事は止まる。性的な興奮状態に近いため、人にはなかなか見せることができないが、そういう状態になった時が自分としてはいちばん楽しい。興奮と快感があり、非常に疲れる。

 簡単に言えば、ラリる。ラリることができる。本や映画や歌で。違法薬物を使ったときや、女性のフェロモンにあてられたときなんかと一緒のことが起きる。それが起きないと片手落ちなのだけど、なかなか起きてはくれない。そういう快感を忘れたり思い出したりしながら生きている。今は思い出したときなのでこうして書いている。こういうときはとにかく文章が次から次に生まれる。10分で千文字とか書ける。ただ、そうした興奮状態によって生み出されたものが排泄物とどう違うのかがわからない。作品は運動の落とし子という感じがする。残るのは運動があった時の興奮のパッケージであって運動や興奮や快感そのものではない。

 作者や本人にとってはその興奮や快感そのものの方が大事なんじゃないかと思ったりもする。それは読者としては寂しいことだと思うかもしれない。しかし、そんなことはない。受け手は受け手でありながら、その情報に触れたときの振る舞い方は自由であり、受け取り方も自由であり、つまり作品の受け手とは受けた瞬間にまた次の運動や興奮の主体になるからだ。主体の連鎖による興奮の連鎖が起こる。これは記録の二次的な作用だ。

 これは日記だ。今日ぼくは興奮している。日記として書いておこう。しかしそろそろ寝るだろう。寝なくてはいけない。この興奮を鎮める時間も必要だ。集中は興奮を生む。今の社会はなかなか人を集中させないようにできている。みんなきっと興奮したくないんだろう。みんな集中したり興奮したりするのが嫌いなんだろう。めんどくさいから。よくわかる。みんなせっかちだ。ぼくだってせっかちだ。しかし情報が長い時間を求めるのだから、情報と遊んであげよう。みんなが遊ばないならぼくだけが遊んでいよう。こんなに楽しいことはない。めんどくさいし、疲れるけどね。