水星は、みかづき町に擬態する
2020 6/29
何時に目が覚めたか覚えていない。昨日は眠れなくて、4:30ごろに寝ついたように記憶している。
二限の後半にレッスンがあるので、9:00には駅に行かなくてはいけない。7:30に起きようとして、7:45に起きる。朝の15分は大きい。この大きいって言葉は比喩だけど、何が大きいんだろう。客観的には15分だけど、深夜の15分とはわけが違う。
睡眠時間が三時間だったのでフラフラしながら駅まで歩く。太陽に照らされて、アスファルトにも照らされて、空気中には水分の量が多く、僕は汗をかきながら、蒸し焼きの気分で歩く。最後とはいえ、6月でこの暑さかあ、と少しうんざりする。うんざり。不思議な感覚だ。悲しみで寂しさでもなくうんざり。うんざりすると、暑さが増す。
学校に着く。今日から通常授業が一部再開したので、今まで会ってなかったたくさんの友人に会う。人が多いところは苦手だ。人が多いとテンションが下がる。単純に疲れて、何もしたくなくなる。
友人と話していて、俺のパーソナリティなんてどうでもいい、みたいなことを言った。
レッスン。寝てなくたって声は出る。久しぶりにピアノと一緒に歌ってたのしかったです。
ご飯を食べて、帰る。帰り際に図書館に寄って『世界のエリートがやっている最高の休息法』を借りる。本当はその場で読み切るつもりだったんだけど、眠すぎてダメだった。休息法を知りたい人が疲れていて勉強できない場合は、どうしたらいいんだろう。休息法を知りたい人のための休息法が必要。急速な休息法。ダジャレ。
歩いて帰る。図書館からは徒歩30分くらいのはずが、気づいたら逆方向に歩いていて一時間くらいかかる。
『世界のエリートがやっている最高の休息法』という本は、物語形式になっている。とてつもなく優秀な脳神経学者の卵である主人公が、挫折と疲れのなか、教授の教えもあり、マインドフルネスと出会う、というような話だ。マインドフルネス×脳科学という感じで、最初の部分を読んだだけでも面白かった。
休息法の本を読んだところ、マインドフルネスはヴィパッサナー瞑想によく似ていることがわかった。ヴィパッサナー瞑想とは、止観瞑想とも言われる瞑想の方法で、インドの原始的な瞑想法のことだ。
止観瞑想という名前の通り、止まっている自分を観る瞑想法で、例えばじっとしながら呼吸に集中したり、自分を引っ張る重力の力を感じたりする。
じっと自分の内部感覚や、外部から与えられる刺激を観察していると、さまざまな力が自分に向けて発せられたり、自分が発したりしていることに気づく。太陽が自分を焼いて、アスファルトが空間を蒸していく。風が通り抜ける。潮の匂いがする。鳥が鳴いている。今、ここに集中する。すると、悩みが消えていく。
『世界のエリートがやっている休息法』は、この、悩みが消えていくメカニズムが脳科学によって解説されている。
多くの人が知りたいのはここだろう。「そんなことやってホントに悩みが消えるの?」消えます。消えるというか、意識しなくなります。
しかし、落ち着くのが果たして幸福なのかというのは、考えなくてはいけないかもしれない。人間の脳は、感情的にギャップがあると快感を感じるようになっているらしい。
さめざめ泣いたり、手玉に取られたり、かと思えば喜ばされたり、振り回されることが楽しいみたいだ。小悪魔女子がモテるのはそういうことらしい。小悪魔女子ですら脳科学で説明がつく時代というのは、とってもわかりやすいし助かるのだけど、手品のタネをバラされた感じもある。これだけクリティカルでわかりやすい情報が多い世界だから、知識量がモノを言うようになってしまったんだろう。
落ち着いてしまえば、感情が振り回されることもなくなる。論理的思考はできるようになるし、決断力も上がるけど、快感の量は減る。仕方のないことだ。悲しみがあれば喜びもある。悲しみがなくなれば喜びもなくなる。
瞑想は、歩きながらでもできる。歩いてるときに感じることに集中すればいい。呼吸、太陽の光、足がアスファルトを蹴っている感覚、汗が吹き出る瞬間の感覚。それらを感じていると、起こっていることと感情がリンクしなくなる。
例えば、今日はとても暑かったのだけど、暑いという感覚に集中すると、暑いことと、イヤだという感覚の二つが切り離されて、暑くてもイヤだと思わなくなる。それどころか、体に当たる風にも敏感になって気分が少し良くなったりする。いいことが多い。疲れたときにやると、目が覚めたり、疲れを感じなくなったりする。結果的に、無限に歩くことができる。
そんな風にして歩いていたら、夕方に近いこともあって、犬を散歩させている人をよく見かけた。犬を見ていたら、飼い主さんに「触りますか?」と声をかけられる。二人から声をかけられた。二匹触った。チワワとプードル。
僕は知らない人と話すとき、異常に愛想が良い。お店のひととか、道端のひととか、居酒屋のひととか。それは、相手に良く見られたいからだ。僕のパーソナリティが明るかったりオープンな訳じゃない。
しかし、動機は問わず、笑顔で対応したり、進んで話を聞いたり、親切な行動を取るひとは明るくオープンなパーソナリティである、ということになる。
であれば、人格とは、どう見られたいかの集積なのではないか、という仮説を立てて、歩きながら考えていた。
僕は知らないひとと話すとき、明るい自分を演じている。それは非常に自然な演技だから、演技だとは思われない。自分でも演技だとは思っていない。あとで思い返すと、ああ、あのとき演技をしていたな、と思うだけだ。
つまり、演技には、相手にどう思われたいかが反映される。それはほぼ自動的に起こる心の機能で、であれば演技は何をするかではなくどう見られるかが大事になってくる。
お芝居をするなら、人間関係の中で自分の役が人にどう見られたいと思っているかを考えれば、そこから逆算してパーソナリティが浮かび上がってくるのではないかと思った。
パーソナリティとは、どう見られたいかの集積である、という命題を立てた。
16:00ごろに帰る。フルーツを食べると眠くなったので6時間くらい寝る。そして今これを書いている。一日は長い。書くのも長い。明日は日記を書いてるのだろうか。とりあえず眠ろう。今日も、こうして見ると色々なことを考えたものだなあ。
2020 6/30
朝、10:30ごろに起きる。いや、起きるというか、目が覚めるが、身体が起き上がらない。持ち上がらない。ぐだぐだとまばたきを繰り返し、11:00を迎える。頭が重く、何もする気が起きない...。こういう時は大抵の場合低気圧が原因ということにしているから(自分の中で決めてる。言い訳のために)気圧を調べる。今日は低気圧らしいと知って救われる。
今日は12:40には家を出なくてはいけないので、なんとかベッドから這い出して、シャワーを浴びる。体は冷えていたみたいで、シャワーの熱が染み込む感じがする。じんじんと。頭に熱いシャワーを浴びると良いみたいだ。重さが少しだけ和らぐ。
学校に行く。行く途中の1時間半で何をしたか全然覚えていなくて、怖い。時間が消失したみたいだ。移動時間の記憶は消えやすいから、こまる。移動時間が長いから、こまる。
一日に三時間消失していることになる。でも、帰りの記憶はある。ドラマを見ていたから。
しかし今はまだ学校についてないから、その記憶はその時の僕にはない。学校に着く。
授業を一つ受ける。オペラ演習。歌えることが面白い。実際に歌うことが面白い。対面というのはやっぱり大変だけど価値がある。固有のものがある。とはいえ対面絶対主義みたいなことじゃなくて、レコードにもライブにもインスタライブにもそれぞれの固有のものがあり、その中の一つとして対面があるというだけだ。
帰ろうとするが、歌い足りず、練習室へ行く。まだ提出してない書類のことを考えると、教務課に行きづらい。俺が悪い。
帰る。ドラマを見る。家に着く。ドラマを見る。お風呂に入る。ドラマを見る。
家に帰ってからも、あんまり何をしたでもなく、次の日が来てしまった。次の日なんてこなければいいのに、なんて思わなくなったから、暇は良いことだ。
こうして日記を書いていると、日記という文学の形態について考える。カフカの日記、ミシェル・レリス日記、チェ・ゲバラ日記、ダライ・ラマの日記。これらの日記が読みたい。日記に正しい形はないけど、例えば非常に描写的に書く人もいるだろうし、僕のこれはまったくもって描写ではなく言葉の自動的な駆動に任せると言った感じで、読んでいて面白いのだろうか。
自信がないのは人に好かれないけど、思ってしまったものはしょうがない。公開する前提で書いているのがおかしいのか。
自分が読んだらきっと面白いだろう。俺が面白いと思うものはみんなにとって面白くないらしい。孤独であることに痛みを感じる。そういうタイプだ。心理学的にいえば。心理学的にいえば。心理学的にいえば。心理学かあ。メスを入れて勝手に名前がつけられていくみたいだ。「20200630、心、孤独を恐れる。」みたいなラベルを貼られて標本にされて、俺は科学的な記号になる。人間は記号じゃない。所有もできない筈だ。わかり得ない部分が大切だ。わかり得ない部分は、分かろうとするから現れる。分かろうとすることは大切だ。でも、でも、でも、でも、でも、、、でもなんだろう。科学に対して、素朴に、たぶん、素朴に、そんなことで分かった気になるな!と言いたい自分がいるのを無視することができないんだ、ぼくは。
2020 7/1
七月になってしまった。起き上がったのは11時。しかし眠い、というか重い。故に眠る。12:50に起きる。
時系列的にはおかしいけど、いま電車のなかに、通勤電車にむしろ乗りたいっていうことをひたすら主張する男が耳障りな特徴的な声で喋っているのが聞こえる。スキマスイッチのボーカルのような声で、人によっては好きな声だろうと思う。僕は苦手だ。スキマスイッチは好きだ。
主張している人の声はわかる。特徴的だ。話を聞いてる人の方が余裕があり落ち着いてるように見える。つまり、話を聞く側と話す側では立場的な変化が、その瞬間に起こるということだ。言わぬが花。それはある一つの真理であるようにも思う。
人に話すのは相手の感情に寄り添うことが大事だ。相手が気分良く受け入れられる打診の仕方なら、失敗することは少ない。
文章もきっと同じで、心理的に受け入れやすいパターンというのがあるんだろう。だから、そういう書き方を覚えたい。というか、どうにかして試行錯誤して身につけたい。
起きてからシャワーを浴び、ご飯を食べ歌の練習をする。歌えば複数の問題は解決する。歌うことで健康になれる人間でよかったなぁ。
だらだら過ごす。16:00ごろに一眠りして、17:00前に起きる。17:20に家を出ないと。間に合わない。
友人と食事を食べる。この時期に新宿へ行った。無用心だと思う。友人も無用心だと思っていたらしい。様子と会話ですこしわかる。では、なぜ無用心をあえてやってしまうのだろう。合わないほうがいい、会うにしても、別の場所がいい。しかし、お互い無用心だとわかりながら無用心を進んで求めてしまう。死の欲動というやつだろうか。あえて、新宿に行く。新宿には相変わらず、ひとが多かった。
中華料理を食べる。美味しい。いろいろな話をする。ぼくは、いろいろなことに気づく。例えば、ぼくは自分の感情ではなく他人の感情に、もっと言うと他人から自分へ向けられる感情に反応していること。
ものごとの共通点と違いが気になること。
外出自粛に我慢が必要な場合があること。
自分の好きなものを人に伝える方法で悩んでいる人が多いこと。
保護されたくないこと。放って置かれたくもないこと。
気づいた。
駅から家まで雨の中を歩いている。
恋人はいま不安らしい。なんとかしてあげたいと思う。
俺は、受け入れる人になるんだろう。
自分が一番求めている母性を、自分が一番発揮する。
受容。
客体。
客体として生きる。憧れられるところの人間。
憎まれる人間。愛される人間。誰よりも嫌われる人間。受け入れよう。好きなものを俺に入れてくれ。
なりたいあなたになってあげよう。そうしてぼくは全てを手に入れるんだと思う。
中学二年生みたいで恥ずかしいな。
2020 (7/3) 7/2
いま、7/3の14:00ちょうど、学校への電車の中でこれを書いている。昨日は眠くて眠くて、とはいえ夜の二時に寝たのだけど、それから今日の12:00まで寝た。これは、本来なら今日の日記に書くことだ。
全然眠れなかった。5時間くらいしか眠れず、11:00には家を出なくてはいけなかったので頑張って布団の外へ出る。晴れ。
昨日までの雨が乾かないうちに空はもう透き通ると言った感じの青空で、体は焼かれる。焼かれる感じだ。下からアスファルトに照らされる。ホットサンド状態だ。
『休息法』の本にある歩行マインドフルネス的なことをやると、暑さと感情がリンクしなくなるので、不快感はなくなる。便利だ。果たして禅のメソッドを便利と言ってしまって良いのかはわからない。(禅をメソッドと言ってしまって良いのかもわからない。)
昼からピアノと合わせをする。合わせができるようになったのは嬉しい。しかしうまくはいかない。うまくいかないなりに頑張ろうと思う。それは、いつもそう思う。
できないからやる。挫折するからやる。いつもそうだ。自分に出来損ないだって感覚を感じているから、少しでも欠損が埋められるように頑張る。それでも天才にかなわないこともある。できることもある。そういうもんだろう。
挫折感のようなものを感じる。昼食を食べ、恋人とサイクリングに出かける。自転車を借りられるサービスが最近、やけに充実していて、東京都内ならどこの自治体もやってる。川沿いを走る。いい気分だ。
帰宅。寝る。何もしなかった。風呂に入った。しかし記憶がない。寝た記憶しかない。疲れていたらしい。これを書いている今でも、その疲労感は残ってる。
2020 7/4
起きる。11時。寝る。起きる。12:30。
睡眠時間がまたおかしくなっているけど、これもきっと周期的なものだろうと思う。本を読み、食事をする。
体癖論の勉強をしようと、昨日考えていたんだった。明日は都知事選の投票日。でも、今日投票しに行こうと思う。
母親と話をして、それから期日前投票と本の調達に出かける。
投票するためのカードのようなやつ、住民の情報が書いているアレ、名前を知らないアレには、投票所が小学校だと書いてあったから、小学校に行ったけど何もやっていない。おかしい。グルグル回る、一周回ったけど投票をやっている気配がない。時間が過ぎたか?
もう一回投票用紙を見る。確かにここだ。この時はわかっていなかったけど、本当は区役所だった。
期日前投票を終えて、区役所を出る。図書館へ向かう。最近、細かく順序立てて書くのが面倒くさい。最近、いろいろなことが面倒くさい。
図書館では、整体の本と心理学の本を読む。どちらも体癖論に関わるやつだ。ツールが欲しい。人間を理解するためのツールが。MBTI、ストレスタイプ、そして体癖。この三つで相手を理解し、コールドリーディングをしつつニーズを探っていくことができるようになれば、後は相手の自己重要感と、相手から見た自分の重要感を上げていけば人間関係はうまくいく。理論上は。
図書館で読んだ二冊はあまり役に立ちそうになかった。やっぱり原典に当たらなくちゃならない。自転車を走らせ、書店まで行く。
野口晴哉著『体癖』を買う。700円くらい。野口晴哉の著作を読むのはこれで四冊目だ。気づかないうちに何故か読んでいる。自分の行くところに現れるのだから仕方がない。読んでいく。
また、『体癖』という本には第二巻が存在するらしい。なので、借りに行く。第一巻は貸出中だったけど、第二巻まで読む人は少ないらしい。まだ読んでいない。読む予定だ。
家に帰る。食事をする。歌う。お風呂に入る。ウイイレをやる。そんな感じ。そうして気づけば次の日が来ている。一日が短く感じるのは、起きるのが遅いからだ。夜がぼくの主な活動時間になる。マインドフルネスの本を読む。寝る前に10分くらいやる習慣にしちゃおうかな。続くかな。
2020 7/5
友人と東京を歩く日。歩きながらいろいろなことを話した。民主主義や、文学や、カラーコーンについて。美しいものを見た。夕焼けや焼けることについて話した。数時間前のことだ。
東京都知事選についても話した。話さざるを得なかった。理性について話した。感情とか、人間を分ける三分法について話した。
記憶はあるが整理が追いつかない。本はあるけど読むのが追いつかないみたいだ。本を多冊読む話をした。多冊の響きに他殺を感じた。いまも感じる。読むのは殺すのに似ている。嘘だ。そんなこと思ってない。しかし、殺すためには明らかにする必要がある。相手の居場所や、弱点について。読み、明らかにすることは殺すことの第一歩になるかもしれない。
空目した言葉について話した。線路のそばを歩いた。美しいものを見た。
今は歩いている。線路の下を歩いて、家に帰っている。日記とは本来ねるまえに書くものだろうから、これは日記のフォーマットに従ってないかもしれない。いいこともあったしわるいこともあった。悪いことばかりではない。生きていると面白いことがある。一日の間でもいくつかある。悪いことばかりじゃないって話をした。児玉まりあとスペシャルについて話した。
分けて、決めて、配置することーー永井 希 著『積読こそ完全な読書術である』を読んで。
永田希著『積読こそ完全な読書術である』を読んだ。
僕は一昨日、これを読みながら寝ずに本の配置をしなおした。
とても面白かった。簡単に言えば、現代社会の情報過多への抵抗の仕方について書かれた本だ。
現代人は、あらゆるメディアで作られ、過剰供給される情報に押し流されて、様々なコンテンツを脳内の「あとで見る」フォルダーの中に積んでいく。
見ようと思っている映画、聴こうと思ってる音楽、勉強しようと思った外国語。
人生を全て使ったってまるで足りない量のコンテンツが日夜生産され、蓄積され続けている。
著者はこのような、あらゆるメディアで情報が鑑賞されることなく氾濫し、蓄積され続けていく状況を「情報の濁流」と呼び、「情報の濁流」の中で未消化のものが積み上がっていく環境を「積読環境」と呼んでいる。
僕たちは自分の意思に反して、あるいは無意識的にコンテンツを積んでしまう。それは、社会そのものが巨大な「積読環境」を形成しているからだ。
著者は、情報の濁流の中を押し流されて無秩序に積読するのではなく、積読の後ろめたさに耐えつつ、自律的な積読環境=「ビオトープ的積読環境」を作れと僕らの背中を押してくれる。
ビオトープとは生き物が暮らす環境を意味する言葉で、知識の有機的なつながりのことを比喩的に言っているのだろう。
著者はピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』と、モーティマー・J・アドラーの『本を読む本』の読書論を紹介する中で、このように述べている。
バイヤールは、「鉄道交通の責任者」が「列車間の関係」に注意しなければならないように、「本と本との関係(つまり大きな文脈の中での本の位置づけ)」に注意を払うべきだ、と述べています。
(78ページ)
あなたがこれから何かの知識を得たい、あるいは何かの書物を楽しく読みたいと思ったときには、自分が何をテーマにするのかを決めることが重要です。
大事なのは、テーマをとにもかくにもひとまず「決める」ということです。(117ページ)
テーマを決めるのは適当でいいし、適当に決めたテーマを、さらに適当に変化させるのもいいのですが、「自分が今何をテーマにしているのか」を見失うことだけは避けなければなりません。(124ページ)
この二つの意見を取り入れた上で、著者は、とりあえずテーマを決めてしまい、そのテーマの中でそれぞれの本がどのように位置しているかを整理することで、自律的な一つの「ビオトープ的積読環境」を作ることができると述べている。
自分の「ビオトープ的積読環境」は、単なる知識の整理術にとどまらず、巨大な「積読環境」である現代社会の「情報の濁流」から身を守るシェルターとしても機能する。
「ビオトープ的積読環境」は「知識の生態系」でありダムやプールじゃないので、定期的に手を入れてやれば新陳代謝を繰り返し、生態系はさらに豊かになっていく。
ビオトープの維持には手間がかかる。干上がったり決壊してしまう恐れもある。
それでも「情報の濁流」にこれ以上ただ黙って飲み込まれているわけにもいかないのだ。
一昨日、僕の部屋には本が積み上がり始めていた。僕は小さな頃からずっと「情報の濁流」に飲み込まれ、もがいている。
最近はそのもがきも虚しく、濁流は胸のところまで押し寄せてきて、部屋は決壊寸前、自分は窒息しかかっていた。
だから、できるだけ早く、いつ決壊するかわからないとしても、それでもここに、この部屋に「ビオトープ的積読環境」を作らなくてはいけない。そうしないと部屋の方が決壊してしまう。
そのために、とりあえずテーマを決めて本を分類し、本棚の整理をやり直すことにしたのだ。
テーマに沿って本を分類して、本棚に配置していくことで僕の「ビオトープ的な積読環境」は可視化することができるようになる。
自分の知識を構造物として本棚の中に立体的に配置していくことーーそこにはレゴブロックのような快感があるように感じた。
あるいは、シルバニアファミリーのおうちの中でお人形遊びをしている時のような喜び。
分けて、決めて、配置することの快感。
芸術というのは、ある形や色や音の配置そのものを味わうことであり、何を意味するかではない。さらに言えば、何を意味するかという次元はあるのだが、単一の意味ではなく、諸要素が帯びる複数の意味の関係や配置が問題で、いわば意味の非意味的享受が問題。だから芸術の社会的有用性など論外。
— 千葉雅也『デッドライン』発売 (@masayachiba) 2020年5月24日
千葉雅也は、諸要素の関係性と配置こそが芸術の問題である、と言う。
大きな文脈の上でのそれぞれの本の関係性が大事だと主張するバイヤールの言葉を思い出した。
意味の非意味的享受。
小笠原鳥類の文章を読むと、言葉は、どういう関係性の中に配置されるかによって意味や感触を大きく変えるのだということがわかる。
村上龍は、複数ある情報を組み立てて小説を書いていると言っている。
この情報という概念が何なのかよく分からなかったし、今でもわからないのだけど、意味をそのまま受け取るなら、ここでもまた諸要素の配置が問題になってくる。
「『配置こそが美徳』なんて」
この歌詞は、芸術について語っているのか、それともシステムについて語っているのか。
システムと芸術は、どちらも配置を重要視する。
組み合わせて、別の存在を作ることの快感。元あった形を無理やり組み合わせ、全体像を変えてしまう改造の快感。
コネクトの快感。ディティールによりフレームが変化することの面白さを僕はずっと感じ続けている。
細部として分裂していくアメーバの集まりというモチーフは多分ここから来ている。
コネクトする快感とは一体なんなのだろう。
弁証法の根本には、コネクトの快感がある。
破壊、混ぜ合わせ、ぶつかり。
「人と会う時間は、自分と他人がぶつかる時間でもある」という話を友人とした。
外出自粛を要請されているため、最近は人と会う機会がないっていう話題の時だったと記憶している。
人と話していて楽しいのは、他者とぶつかる中で、お互いが構成要素にするすると分解されていき、相手の意見や、空間のようなその場の何かと組みあわさって混ぜ合わされて別の何かになる、変身していく、改造されていくことの快感なのかなと思った。
何かとぶつかることは自分を改造し、相手をも改造していこうとする試みなのかもしれない。
その試みは必ず失敗に終わる。
自分の思いどおりに行かなくて怒ったり悲しんだりする人間の精神は、僕の中にもあるけど、相手を改造しようとして失敗することの虚しさから来るのかもしれない。
相手の改造なんて絶対に叶わない願いだ。だから、力と力の戦いは虚しい。自分の力に、相手の改造を期待したら、殺すしか無くなってしまう。
コネクトの快感とは、自分が崩れる快感だ。相手を崩す快感ではない。たぶん。お互いに崩れあい、ズブズブになって変身していく過程の中に快感がある。その様はアメーバに似ている。
煩悩のひと
「空(ソラ)とはなんでしょう?」
という問いかけに見えた。お昼の眠りから覚めた僕の目に入ってきたスマートフォンのホームページのタイトル。
ほんとうは「空(クウ)とはなんでしょう?」というページだった。空(クウ)とは仏教の用語のことだ。
クウソクゼシキとか、ゴウンカイクウとかのクウ。
読んでいた本の中に仏教の言葉が出てきたから寝る前の僕は調べていたんだと思う。
でも起きてからの僕はクウではなくソラの方が頭の記憶の上澄みに上がってきていたから、ソラと読んだ。
だって、ソラとはなんでしょう?の方がロマンチックな問いかけだから。
僕は生まれてからソラとは何か考えたことがなかったなあと気づいた。
クウが何かを考えたことはあった。はっきりと分からなかったから。
空即是色、五蘊皆空、とかいう言葉を聞いたことがあると思う。
空とはつまり色(シキ)であり、また色を含めた人間の認識はまた空である。
というような意味らしい。
聞いたことある人もない人も、ここで聞いてしまった以上「空(クウ)って結局どういう意味なの???!?!!!」という疑問が浮かんでしまうだろう。
空とは何かを聞こうと思ってたら、色とか五蘊とかまた新たな概念が登場するのだから。
分からないものを分からないもので説明されても分からない。ファルシのルシがコクーンでパージみたいな感じだ。仏教はだいたいこの論法な気がする。つまり言葉で理解できるものじゃないってことだろうと思う。ずるいよねそういうの。
いや、仏の心を理解したいと思う心もまた煩悩なのです。。。。
煩悩なのでしょうか?ぼくにはわからないことだらけだ。
そのくらいクウというのは難解だから、クウとは何かを疑問に思うことは自然だ。
でも、ソラが何であるかを疑問に思ったことはなかった。ソラは自明で、目に見えて存在しているからだ。
ソラはどうして青いのか、とかソラを飛ぶためにはどうしたらいいのか、とかソラにまつわる疑問はいくらでも出てくるけど、じゃあそのソラっていったい何?という疑問は、考えてみると今まで感じたことがない。
だから、ロマンチックだなあと思った。
かわいい女の子とそういう話をしたい。
「ねえ、ソラっていったいなんだと思う?」みたいな。
「青いもの。」とか「気持ちいいところ」とか「宇宙のこと?」みたいな感じで返答が返ってきて、ああでもないと話すことが理想だ。
というかむしろ女の子の方に問われたい。
「ソラってなんだと思う?」
もうその瞬間にキュンとくるだろう。3秒後には、恋に落ちる。
そういう機会はなかなか無いだろうけど、考えるのが大事だ。妄想はぼくを幸せにする。何故だか。言葉の上での妄想こそ今目の前に存在しない、クウの最たるものだと思うのだけれど、幸せになる。(五蘊皆空とは、色受想行識という人間を成り立たせる五つの要素すべてが空であるという意味。妄想はこの中の想にあたる。先ほどの妄想もまたクウです。)
煩悩の塊だ。ぼくは。108回の鐘では多分足りない。
まあそれでもいい。新たな疑問を感じるのが好きで、女の子が好きだ。好きなことをやるのが一番いい。いやなイメージは考えないでいると本当に健康になるのだという。
ソラとはなんだろう?
なんだか分からない。
オゾン層にレックウザが住んでいて、デオキシスが隕石とともにやってくるのだ。
小さいときはけっこう真面目に信じていた、ぼくの大好きなイメージです。
柴田ヨクサル『エアマスター』 第三巻 178ページ 一コマ目を見て眠れないはなし
「あれは一目ボレの超強力版だったな......」
「0.1秒ごとに好きになっていくカンジでさ...」
「3秒後には
この世のこの時代に生まれてきてよかと思った...」
「この娘(コ)に会えたんだからなって」
(出典元:柴田ヨクサル『エアマスター』二巻 第14話 ジェッツコミック)
ビルの上から落ちていくマキのバックに東京の名前のない夜景が広がっている。
雑居ビル街の裏路地で、ビルの屋上で戦闘する。舞踊のように。
こんな感じの絵だ。たしかに絵だ。
柴田ヨクサルさんの『エアマスター』の三巻、第24話、178ページの出来事。
どうしてこんな絵を描けたのだろうか。
言葉では言えない。鮮烈とか、キレイとか、形容はできるけど、形容することではこの絵にも、この絵が喚起する何かにも決してたどり着けない
見ないと意味がない絵だ。一コマ。六コマあるページの一番上にある横に長い長方形の一コマ。
いま、マンガワンというアプリでエアマスターが読めるので、読んだことがない人は是非読んでみてほしい。読んだことがある人も読もう。
初回ダウンロード者にはたぶん100話分くらいのチケット?ライフ?なんらかの読む権利が与えられる筈なので、だいぶ長いこと読める。
ぼくも今少しずつ読んでいる。そしてマンガワンで言えば第24話の八ページ目から先に進めていない。
一コマ目から進めていない。
進めない。感情が何か出てきてしまってどうしようもないから。だから、こんな風に無意味な描写をしてしまった。
圧倒的な絵の前に言葉は不要だ。当たり前のことだけど、当たり前のことを実感として教えてくれる作品と出会えるのは幸運だ。ぼくは幸運だ。
圧倒的な絵を描いてしまってよかったのだろうか。こういうのを描く人の精神はおかしくなったりしないのだろうか。
柴田ヨクサル先生は、どうやらいたって健康らしい。
記憶の中の深い海
ぼくはある部分はとても成長していて、ある部分は非常に幼い。
始めたばかりなのに上手くいくこともあれば、いつまで経ってもできないことがある。
多くの人がそうであるように、ある時は優しく寛容で、慈悲深い。ある時は怒り、悲しみ、絶望する。
基本的には、寝ていたい。この部分は多くの人とは違うかもしれない。
得意、不得意がある。そして気分の浮き沈みがすこし激しい。
こういうのは社会的に得意なことがはっきりしている人が書くものだと思っている。
自分語りの価値、ここでいう価値とは、市場価値に近いのだけど、もしくは、人になんらかのメリットを与えるかどうかだけど、この文章にそういう意味での価値はあまりない。けれどぼくは今これを記録したくなった。そういうものだと思う。
特技はある。その多くは意図的にしろそうでないにしろ長く続けてきたことだ。
水をたくさん飲むことができる。自己催眠ができる。自己催眠に関しては八年のキャリアがある。一日にあまり食べずに活動できる。長いこと遠い道のりを飽きもせず歩くことができる。
長く続けてきたのにできないことも多い。できることとできないことの数を比べたら絶対にできないことの方が多い。
英語ができない。苦手科目だった。必然性がないままに文法だけをやったってできるようになるはずがない、と文句をずっと言ってきた気がする。英語自体はかなり好きだと思う。
将棋は小学生からの趣味だけどそんなに強くはない。けど好きだ。
料理は苦手だ。お菓子作りはうまい。掃除は頻繁にやらないけどやる時は満足いくまでやる。頻繁にやらないのでほとんどの時期部屋はごちゃごちゃしている。
洗い物は好き。洗濯機は苦手。パソコンを触るのは好きだけど、メンテナンスは得意じゃない。
予定を立てるのはほとんどできないけど、予定がなくても楽しむことができる。
良いところもあれば悪いところもある。
誰かにとって良いところがあれば誰かにとって殺したくなるくらいイヤなところもある。
良いものを多く知っている。良い音楽、良い本、良い料理屋さん、良い場所。
記憶をたくさん持っている。持っていたいと思う記憶がたくさんある。
捨ててしまいたい記憶もあるが、そういう記憶はよく思い出す。捨ててしまいたいけど思い出す記憶がきっと本来は重要なものなのだろう。
大切な記憶と重要な記憶は違う。
こんなふうに色々飽きもせず考えていることができる。
本当は人間は未来も過去も現在もほとんどのことを知っているのだと思う。
子供がすべてを敏感に察知して、悲しい気配に泣いてしまうように、予期する力と推量する力、つまりそれは未来と過去を想う力を持っている。
だから子供はすべてを知っている。大人もすべてを知っている。
身体はすべての記憶を持っている。
DNAの情報は転写され続け、アフリカで最初に立ち上がったサル、現生人類すべての母親の記憶、樹上生活の記憶、サルになる前の哺乳類になる前の魚類になる前のカンブリア紀の記憶、それらはぼくにもぼくの母親にもぼくの周りの子供たちにも受け継がれている。
夢をよく見る。
定期的に女の子と遊ぶ夢を見る。
理想的な女の子が夢には登場する。
理想的な女の子は、その娘の性格がどうとか、良いことをするとかそういうことじゃなく理想的な女の子で、ぼくはその娘に無条件に恋をしている。
たとえその娘がぼくを殺したとしたって、それは必要なことだろうと思う。
夢の中でぼくは女の子に導かれるがままに進んでいく。遊園地を案内したり、教育実習に行ったりする。気が進まなくても導かれていて、きっと現実でもそうだ。
女性が好きだ。女の子に導かれたいと思っている。
自己催眠が好きだというくらいだから、トリップするのが好きだ。
薬物は好きじゃない。向精神薬を飲んだことがあるけどあの奇妙な静けさはどこか人間性の否認という感じがする。
薬で救われるのであれば良い。たしかにそれは人を救っているのだから。
薬に対して対抗心がある。
自己催眠はある種自己治療だからだ。
自己催眠をかけても変な世界を見るわけではない。LSDのように脈絡のない世界を旅するのではなく、自分の記憶の中にある穏やかな景色に入っていって安らぐだけだ。
なのでそれは治療行為によく似ている。
ぼくが文章を書くのも音楽を作るのも、結局は記憶の中の穏やかな景色に入っていくためにやってる気がする。
シェルターか、あるいは避難所のような感じだ。このブログの記事の大多数は僕の避難所になってる。
この間は、深海のような場所にいた。光が差し込むコバルト・ブルーの海の中で岩の上に身を横たえていた。
深い緑の海藻が揺れて魚が銀色の身体を光にかざして、ギラギラと身をくねらせていた。
真っ青なアクアマリンを覗いたらきっとその奥の方で見えるみたいな深海の景色で、ドナルド・フェイゲンの『サンケン・コンドズ』のジャケット写真によく似ている。というか先に頭の中にあったアートワークが再生されたのかもしれない。
あるいは『シェイプ・オブ・ウォーター』のチラシみたいな情景だ。
すべての花が開く美しい五月に、私は彼女に恋をした。
と、詩人が回想する歌だ。
その曲の冒頭を聴くと『シェイプ・オブ・ウォーター』のチラシを思い出す。
五月の地上と深海は大きく違う場所だけど、シューマンの音楽はどちらかというと深海の方に近い。
ぼくの記憶の中の深海に呼応する音楽なのだろうと思う。シューマンの中でどのような景色があったのかは知らない。彼は精神を病んで晩年を過ごした。
ぼくの記憶の中の深海は、あるいは遺伝子の記憶ともつながっているはずだ。
ぼくは昔サルで、ネズミで、魚で、アメーバだった。
長い間、光が差し込む海の中で緑の海藻たちとともに暮らしていたのだ。
最高の”洋楽ロック”とごく個人的な思い出
はじめに
ぼくの音楽との出会いはおそらく洋楽からだと思う。
父親は洋楽が好きな人間だった。
歌詞の意味がわかったことはほとんど無い。
ぼくが意味よりテンションや音を重視するのはこれが音楽の原風景としてあるからかもしれない。
このテキストは
①URL
②曲名
③演奏者/バンド名
と言う順番に無機質に文字がならんだリストの形で進んでいきます。
たまに、思うことがある曲には何かを書いてます。
まとまった秩序はつけませんでした。
もし良ければ、適当にスクロールしてクリックしてみたりしてください。
そうしているうちに、もし、あなたにとって大切な音楽が見つかったら、それに勝る喜びはありません。
さいこうの曲たち
https://youtu.be/l8WMGBuNaus
"Magical Mystery Tour"
おそらく、生まれて初めて聞いた音楽。
あのとき、22年前、1998年の東京郊外。走るビッグホーンの中でぼくはこれを聞いた。
"Green Garden"
Laura Mvula
毎日のように聞いていたJ-waveのラジオで毎日のように流れていた。
忘れられない曲。
何かの幸福を受け取っていた。
"sing swan song"
Can
最近聴いた曲。揺らめく感じが何故か何故か心地よい。
https://youtu.be/SECVGN4Bsgg
"Who can be mit"
Men At Work
生きてて初めてカッコいいと自覚した曲。いま、俺はカッコいいと思っている、とそう自覚した瞬間があった。
信長の野望をやっていた時だった。夏休みだったか日曜日だったか、とにかく休みの日だった。
https://youtu.be/KyQppQPCgMY
"Heart of mine"
Bibby Caldwell
忘れようにも忘れられない、R &Bの原風景になっているような曲。
https://youtu.be/CcGQhm9vJw0
"Believe it or not"
Joey Scarbury
https://youtu.be/Ll6LLGePYwM
"Part time lover"
Stievie Wonder
スティービー・ワンダーの豊かで愉快な曲。
豊かだなと思った。軽快だなと思った。
"Green, Green, Rocky Road"
dave van ronk
ブルースだと思った。ブルースはブルースとしてブルースだと思った。
この曲を聴いて思った。
https://youtu.be/Yc40EasXz18
"Almost Paradise"
Mike&Reno & Ann Wilson
父親のipodに入ってた。
洋楽好きの同級生と古い洋楽の話はできなかった。
彼はボブ・ディランが好きだったけどぼくがボブ・ディランを聴くようになるのは高校三年生くらいの時だからそのときはまだ知らない。
https://youtu.be/g5eXSPKHlso
"Heroin"
Lou Lied
世界で一番好きな曲、大事な曲それは何かと言われたら、日によってはこの曲と答えるかもしれない。
https://youtu.be/Daqp_wGdwhU
"Like A Roling Stone"
https://youtu.be/gxEPV4kolz0
"Piano Man"
カラオケで歌う。
ビリー・ジョエルは行く先々の大人の男たちが好きだった。
みんなどこか繊細だったんだと思う。
https://youtu.be/AYUdldNzLNA
"Kiss On My List"
Hall&oates
https://youtu.be/vsl3gBVO2k4
"Bohemian Rhapsody"
言うまでもなく素晴らしい曲。
なのだけれど、この曲名を自覚したのは最近だった。
高校生くらいの時だと思う。
これを初めて聴いたのはおそらくひどく、とても幼い時で、それもおそらくビッグホーンの中で聴いたのだ。
https://youtu.be/WOuI4OqJfQc
"Just the two of us"
Grover Washinton jr
"Have You Ever Been(To Electric Lady Land)"
https://youtu.be/XUjAC6hqeHI
"Atoll"
Nail Palm
信じられないくらい好き。信じられないくらいギターがうまい。
けどこの曲は、技術の問題ではない。
何が良いのか、何故良いのかわからない。全てと言ってしまえば無責任だけど。
しかし何故か良い。あまりにも良い。
https://youtu.be/BDpdaUG5vjE
"Full Session"
Nai Palm
ドレスコーズや、岡村靖幸のライブに並ぶくらい、クイーンのライブに並ぶくらい、いや、これらはそれぞれ絶対的なものであり、つまり絶対的なアーティストとして素晴らしいライブ。奇跡のような映像。
"Hard To Say I'm Sorry"
Chicago
https://youtu.be/_Son_p6sPeI
"Que sera sera"
"22(OVER S∞∞N)"
Bon Iver
高校三年生の卒業を前にした冬のある日、一月の音楽室で友人たちに、この曲がすごいんだって興奮気味に話した記憶がある。
衝撃だった。朝、学校へ向かう一時間半の電車の中で聴いたこのアルバムが、一瞬で、自分にとって大事だって分かった。
自分にとって大事なものはたぶん一瞬で出会って一瞬でわかる。
この年のグラミー賞はデヴィッド・ボウイが取った。このアルバムもノミネートされていた。その年にデヴィッド・ボウイは死んだ。
"Summer Colour"
"The girl I Hav'nt Met"
Kudasaibeats
ローファイヒップホップを初めて聴いたときの好きな曲。
ローファイな音声は好きで、この間書いたダニエル・ジョンストンもそういう音作りだけど、音楽は全然違う。
"Iambic 9 Poetry"
Squearepusher
エレクトロニックというのか。衝撃的な作品。
海辺の公園で聴いていた。夏にも合うし冬にも合う。
https://youtu.be/K3SezDMPpVM
"Heartbeat"
なぜかぐるぐる回る椅子で回転してる人のPVが印象的なこの作品はなんとなくディズニーランドに行くまでの道路を思い出させる。
ヤシの木がならんだ海岸沿いの道。
ここはどこだろうと思った。幼い時に行ったリゾートの記憶が浦安で思い出されたのだ。
https://youtu.be/zxNHJXpH9QM
"Bus in these streets"
Thundercat
地獄みたいなジャケットで夢みたいな音楽。
https://youtu.be/ppnrNTLYzl0
"Indian Summer"
Rasmus Faber feat. Frinda Sundemo
"Time To Pretend"
母を盗まれるという文章を昔、書いた。
そこに書いた少年と交わした数少ない会話の中に「MGMTは好きかい?」というのがある。
彼の返答は「そうでもない」だった。
https://youtu.be/FyYMzEplnfU
"Only Shallow"
"The end"
『オメガトライブ』という漫画で出てくる。
あの漫画は死にそうになるくらい良い漫画で、後に村上龍の『愛と幻想のファシズム』を読んだら同じような描写、同じようなストーリーが並んでいて、自分の好きなものも傾向がこうわかりやすく見えるのも面白い。
"Surf's Up"
https://youtu.be/4Zbnvh6I4k4
"Monkey Man"
The Roling Stones
ストーンズで一番好きな曲。
歌詞が一番好きなのは『悪魔を憐む歌』。
毛皮のマリーズのよく似たタイトルの(というかオマージュの)曲が好きだ。
"Peg"
"Slinky Thing"
"Return To"
#1Dads
https://youtu.be/isIABK-0ohQ
"The Wilhelm Scream"
James Blake
叫びは不協和で心に直接響くものだ。
ウィルヘルムというのは軍人の名前っぽい。
鉄兜とかそういうのが語源だった気がする。
軍人の叫びなのか。
ロックじゃない。これはジャズだ。
ビル・エヴァンスといえばワルツ・フォー・デビーなのだと思う。
けれどぼくはやっぱり、アリスが好きで、これはディズニーが影響しているのかもしれない。
始まりのDm7→G→CM7の進行が信じられない緩やかだ。
音楽が始まる瞬間の静けさは、何ものにも替えがたい。
"O trem azul"
Lo Borges
ポルトガルロック。
タイトルの訳は『青写真』らしい。
青い写真という意味なのか、それとも計画を立てるという意味で青写真という名前なのか、微妙だ。
(青写真とは19世紀に使われていた写真の印刷技術のことで、青く現像される写真のことを言うみたいです。
みたことあると思う。ググってみて。綺麗です。
普通に現像するより安かったので図面をコピーするために使われていて、そこから転じて設計図とか、計画を練ることに意味が変わっていったらしい。
この曲で言う「青写真」は、その青い写真そのものだと思う。)
ロー・ボルジェスという人はポルトガルの英雄的に人気なシンガーらしい。
全然知らなかった。何故知ったのかも覚えていない。
どちらにせよ大事な歌手で、大事な曲だ。
https://youtu.be/M5gjHFmi2Co
"John Wayne"
Cigarettes After Sex
"Goodbye to the circus"
Aqua
中学の卒業式の日に聞いた。
ぼくは中学生の時、なぜかわからないけどしあわせだった。理由もなく。
その幸せはたぶんサーカスだったんだと思う。
あの日にサーカスは終わって幸せも終わるんだって知ってた気がする。
だからこの曲は僕にとってすごいノスタルジーなんだけど、懐かしさと幸せはやっぱり今の僕にとっても大事なもので、つまりとても大事な曲です。
【暇つぶしまとめの記事】
最高の”邦楽ロック”(ぼくが知るかぎり)
はじめに
今まで聴いた中で最高の音楽を挙げてみました。
ここに集めた曲たちは全てぼくの人生において大切な曲です。
兄が部屋でかけていた曲、父に貰ったipodに入っていた曲、友達に勧められた曲、本で読んで聞いてみた曲、そんなふうに音楽と出会ってきました。
このテキストは
①URL
②曲名
③演奏者/バンド名
と言う順番に無機質に文字がならんだリストの形で進んでいきます。
たまに、思うことがある曲には何かを書いてます。
まとまった秩序はつけませんでした。
適当にスクロールしてクリックしてみたり、気にいる名前を探してみたり、自由に使ってみてください。
そうしているうちに、もし、あなたにとって大切な音楽が見つかったら、それに勝る喜びはありません。
最高の曲たち
"透明人間"
六つ上の兄が部屋の中でよくかけていた曲。
小学三年生くらいの時、学童クラブで『20世紀少年』を読んだ。
そのときずっと頭の中に鳴ってた。
"Loveずっきゅん"
これも兄がよくかけていた。
兄はバンドのドラムをやっていた。
"nano"
ぼくは一応作曲したりする。
一番影響を受けている、というかパクリ元はこの人たちで、ほとんど同じような曲調を無意識に目指してしまうみたいだ。
そのくらいどこか好きで、そして分かちがたい。
https://youtu.be/ddJNUENJsAM
"都会のアリス"
"光と影"
タワーの原風景が頭の中にある。
頭のタワーはきっと河川敷を歩いていた記憶とこの曲のMVのタワーがかぶって出来上がっている。
こち亀のおばけ煙突の話も、特別好きではないけどふと思い出してしまうタワーの一つだ。
"愛に気をつけてね"
今まで見たすべての映像の中で一番奇跡的な映像かもしれない。
"Don't Trust Ryohei Shima"
上記のライブ全部の映像です。
犯罪的。これ公開していいのかな。
とにかくすごいライブだなあ。
ありがとうございます。
"悲しいズボン"
たま
ほとんど即興的にこれを演奏していることが信じられない。
技術がある。技術があるように見せていないけどとてつもなく技術があって、その先に、もしくはその前に、もしくはその根底に何かがある。
潜んでいる。
"ベンガルトラとウイスキー/everything is my guitar"
散歩の途中でyoutubeを見たら関連動画で出てきて、クリックした記憶が残ってる。
https://youtu.be/TELGHn9WaOg
"Water front"
向井秀徳アコースティック&エレクトリック
"サーカスナイト"
"サーカスナイト"
青葉市子
サーカスナイトって曲を初めて知ったのはこの映像だった。
サーカスナイトという名前も、青葉市子という名前も、七尾旅人という名前も知っていたけど、この映像でそれがぶつかって良かったなあと思ってる。
こんなふうに記憶とか情報が交差する中心に音楽や映像があることが多くて、そういう音楽や映像は忘れない。忘れられない。
"月の丘"
青葉市子
最近この曲のギターを練習している。
"青恋イーゼル"
銀河スープ
中学生の時聴いていた。
聴くと心がドキドキした。
あのときはなぜか理由もなく幸福だった。
"チアチアゴー"
the rooms
「狂った青い樹の群れ
ここにいたいけれど
東急大井町線八時
さよならひかる未来」
なんかわからないけど、ロックンロール!って感じの女性ボーカル。
エレキギターをピックでギュイーンってやるシーンがあって、そこがかれこれ七年くらいお気に入りです。
https://youtu.be/UybhrTTYlXg
"タクラマカン砂漠"
モルグモルマルモ
PVの謎ダンスが好き。
"WEEKEND MAGIC NUMBERS"
https://youtu.be/galpVZNupRk
"愛の花"
タラチネ
懐かしい。この曲は僕の幸せのある部分をたしかに担っていた。
いまでも担っているのだろうと思う。
"I WAS IN LOVE"
FPM feat.細美武士
川を越えた向こうのバスの車両基地のような、青い壁に囲まれた広い建物群に面した道路を夏の熱い日にじりじり焼かれながらずっと歩いてた時に聴いて曲です。
"今更"
中学のなんかの行事で、遅れて体育館に入ってきた友達とこの曲について話しました。
"Avalon"
OTOTOI GROUP
誰か全然知らないけどすごい好き。
"魔法のように"
FAB
https://youtu.be/dUdfCCeloKU
"よろこびの吟"
plenty
"アイボリー"
"夢の中で"
https://youtu.be/FgIEGHTGTlg
"プラスティックガール"
青春という言葉を使うのは恥ずかしいけど青春という言葉が、ぼくの中で一番似合う曲。
"ビューティフル"
泣いてしまうほど思い出深い。
"僕の果実"
"春の feat.大坪加奈"
古川本舗
"縦書きの雨 feat.中納良恵"
"くちなしの丘"
"ハナレバナレ"
ぼくの中でハナレバナレはこのアレンジで頭に記録されてる。
"ナイトクルージング"
https://youtu.be/W6BFtZHURXM
"ずっと前"
https://youtu.be/w05Q_aZKkFw
"エイリアンズ"
"天空橋に"
友人が言っていたので聞いた。とても良い。
音楽って音がなっているわけだから静かじゃないんだけど音が鳴っている方が静かに感じられる曲があって、この曲は始まる前からそういう終わる時まで静けさに包まれてる。
"時間を名乗る天使"
これも友人が言っていたので聞いた曲。
夜に聞いた。夜にあってる。夜にあってる曲は好きだと思った。
"パークサイドは夢の中"
"今日を生きよう"
サニーデイ・サービスの中で一番好き。
「天使じゃないって?そりゃそうさ」って歌詞に、なぜか救われた。
何から救われたのかはわからない。
"あの娘ぼくがロングシュートきめたらどんな顔するだろう"
ギターを弾く岡村ちゃんの顔が好きすぎる。
"葬儀屋の娘"
工藤裕次郎
"北極大陸"
AL
"若者のすべて"
"ロビンソン"
"ブルーサマー"
Mechanelo
バンドマジックという言葉をこの曲の最後のアンサンブルで身体で理解した。
"夏なんです"
こんな映像があったなんて知らなかった。
夏なんですって曲なのに、冬に聞いてた思い出がある。
"セシウムと少女"
"Selfish"
"クロノスタシス"
きのこ帝国
"まともがわからない"
ラジオを聞いて登校していた中学校時代、ある時期に毎日のように流れていて、まともがわからないなあって思った。
"空洞です"
「想像上の神の庭で、誰もうまく遊べないよ」っていう歌詞が好きだった。今も好き。
https://youtu.be/6BDW1V_P5sA
"ハイブリッドレインボウ"
https://youtu.be/TCO-mXa0SBs
"夜の東側"
友達がカラオケで歌ったこの曲が、初めて聞いたサカナクションだった。
"ダニー・ゴー"
THEE MICHELLE GUN ELEFANT
誰よりも何よりも好きな曲。
"透明少女"
口上がかっこいいよね。
"脳"
トモフスキーは天才です。
天才とはこんなに自然体なものなのかと驚いてしまいます。
"高層ビルと人工衛星"
teto
https://youtu.be/HpWCEIfvqzk
"ネトカノ"
Sugar's Campaign
https://youtu.be/deWXsZrZwiM
"蛹"
suzumoku
"バックシート・フェアウェル"
集団行動
"冬来たりなば"
冬のアルバムだったので、ぼくはこれをお正月付近に聞くようにしている気がする。
"けむをまこう"
本日休演
"夜の太陽"
ギリシャラブ
"ローカル線"
"Time machine"
D.A.N
"シカゴ・バウンド"
"じゃっ夏なんで"
夏が好きかどうかはわからないけど、この曲の初めになっているセミの声はとても好き。
https://soundcloud.com/kyohei-sakaguchi-1/djojdny7qphv
"つばめ"
坂口アオ/坂口恭平
建築家、作家、陶芸家?なんかいろいろやってる坂口恭平という人の曲。
歌っているのは娘のアオさんという方らしい。
ノスタルジーな情景が浮かぶ。幸せな午後夕間暮れって感じの曲。