ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

自己カウンセリング症例①:どうしていいかわからず不安

「自己カウンセリングというのをやってみようと思う。」

「うん。そうなんだ。」

「だれも聞いてくれないなら、自分でやるしかない。」

「そうだね。聞いてくれないの?」

「そう。だれも聞いてくれない。」

「そうなんだ。しんどいね。」

「うん。だから、自分と対話をする。二つの人格(?)を用意して、一つは、違和感や無力感を抱えている自分。もう一つは、聞いてくれて、行動は、わかんないけど、感情はすべて肯定してくれる聞き手としての自分。」

「うん。そうか。二つ用意するんだ。」

「そう。二つ用意する。嫌な感情や、どうしていいかわかんない時、迷いの中にいる時、一方で迷いの中にいる自分を立てて、もう一方で、こいつは無能だし何もしないけど感情を全部肯定してくれて、話を聞いてくれる君を立てるんだ。それで、解決になるかわかんないけど全て吐き出してしまおうと思うんだ。吐き出すのにだってプロセスはいるよ。大事なプロセスだ。」

「大事なプロセスなんだね。吐き出してみようか。」

「そうする。」

 

  僕は、自分の主張がうまくまとまらなくて、何を言っても人に通じないって感覚を持ち続けて生きてきた。

 人の言ってることも、いまいちよく分からないことも多くて、コミュニケーションに不全感を抱えたまま大きくなってしまった。

 身体は、勝手に大きくなる。

 なので、自分を相手に会話してみることにした。悲しい奴に見えるかい?そうか。でもね、これが意外といい気分なんだよ。考えがまとまるんだ。

 さっき、一通の電話が来た。彼女は僕の伴奏者で、楽譜を渡されていない、という話だった。

 そんなはずはない。はずはないのだけど、でも、事実がどうであったかが問題ではない。彼女はとにかく、何故か、怒っている。

 そこで、俺は話を聞かなければいけないけど、とても不安だなあ、と思ってる。

 こういうところから対話は始まります。

 

 

「どうしたらいいんだろう。」

「どうしたの?」

「どうしたらいいかわからないんだ。」

「そうか。どうしたらいいかわからないんだ。」

「うん。どうしよう...」

「何がわからないの?」

「うーん、何かがわからない。。。なんだろう。なんとなく、どうしていいかわからない。モヤモヤする。不安なんだ。」

「そうか。不安なんだね。」

「そう。不安。とても不安。これから責められるんじゃないかって思うんだ。」

「これから責められるかもしれないの?それは、、、嫌だね。」

「そう。嫌だった。嫌だったから、ドラマを見るのも途中で切り上げてしまった。急に身が入らなくなったんだ。自分の感情の振れ幅がこんなに大きいって知らなかった。びっくりしたし怖かったなあ。でもやる気にならなかったから、もしかしたらやる気っていうのは不安がないと起こるのかもしれないなあ。」

「ああー、そういうもんなんだね。」

「うん。そういうもんみたい。とにかくやる気が出ないんだ。怖いんだ。不安なんだ。責められたくないんだ。責められたらどうすればいいかはわかるんだよ。」

「わかるんだ。すごいね。どうやるの?」

「ありがとう。そう。すごいの。どうすればいいかっていうとね、とりあえず、相手の話を聞くんだ。君に任せてしまうのもいいかもしれないけど。やっぱり俺がやらなきゃいけないかもしれない。」

「君がやらなきゃいけないって思うんだ。そうか。うん。」

「そう。俺がやらなきゃいけない。でも、できるかどうかわからない。俺は聞き手としては未熟で、どうしても、こんなふうに、自己主張したいんだ。」

「自己主張したいんだね。うんうん。」

「そう。自己主張したい。でもそれが聞き入れられないのだろうと思って、嫌になる。そして、俺が悪者になってしまうのだって嫌だ。相手の方が悪いじゃないかと思う。忘れていたのは相手の方で、俺は確かに楽譜を渡したから。それでも、俺が悪いことになる。下手な歌を歌ったからか?それはあるだろう。でも下手だから頑張るんだよ俺は。だから今日も5、6時間練習していて、それで喉は問題ないくらいの体力をゲットした。でも、疲れてしまったから寝ちゃったんだ。そのことに彼女は怒っているのかもしれない。でも俺だって俺なりの都合があるんだ。とはいえ彼女にも彼女の都合があって、それは尊重されるべきだ。俺は彼女にお願いしている立場だから、なおさらのことだ。」

「うん。君は悪くなくて、でも、彼女も尊重されるべきだって思ってるんだね。」

「そう。そうなんだ。それで、不安なんだ。」

「不安なんだ。そうか。」

「うん。不安。不安なんだよね。ああー。ちょっと落ち着いてきたよ。ありがとう。」

「うん。落ち着いてきたんだ。よかったよ。どういたしまして。」

「うん。ありがとう。しっかりと聞けるかどうかわからなくて不安だけど、頑張ってみる。とにかく、彼女の感情を満たすのが第一条件だ。それが一番大事。そのためにはまず自分を絶えず空っぽにしなきゃいけない。空っぽにしないと人の話は聞けないし、感情を受け止めることなんてできないから。でも、これはもう決めてしまえばそれでいい。僕は彼女の感情を受け止める。とりあえず出し切るまですべて受け入れる。それくらいの度量も容量もあると思ってる。自分の考えは浮かんですぐに脇に置いて、空っぽにし続けるんだ。自分のことを。主張するのは、彼女の話が終わってからだ。彼女の話が終わるまでどのくらいかかるかわからない。それでも、彼女の感情を否定しない。たとえ、俺が否定されたとしても。俺が否定されたと感じたって、彼女がそう思っていることを否定したりせずに、受け入れるんだ。スポンジみたいに。それを、決めて仕舞えばいい。」

「うん。空っぽになって受け入れるんだね。スポンジみたいに。」

「そう。スポンジみたいに。聞き手は常に空っぽの器じゃなきゃいけない、のかもしれない。とりあえず俺はそういう風にやんないといけないんだ。空っぽになるんだ。この瞬間だけは。もしかしたらそれは快感かもしれない。うん。もしかしたらね。いや、とはいえ今ちょっと、そんなことないって思ってしまったよ。とりあえず、方法論としての空っぽを試してみるんだ。彼女は何かを喋りたがってる。彼女の感情がそうさせている。それを受け止めるんだ。受け止めるんだ。」

「うんうん。受け止めるんだね。そうかあ。試してみるんだ。」

「うん。試してみようと思う。反論はしても、相手の感情を否定しないでいる。この、微妙なところを頑張れば、きっとうまくいくと思ってるから。きっとうまくいく。絶対に俺は大丈夫だ。彼女だって大丈夫だ。思った通りにならなかったとしても大丈夫。大丈夫じゃなくても大丈夫。むしろ、どうなるかなんてわからない。全く思いもよらない方向から解決の糸口が見つかるかもしれない。だから、そのためにまず彼女の感情を受け入れようと思う。」

「うん。きっとうまくいくよ。大丈夫。きっとうまくいくよ。」

「うん。きっとうまくいく。ありがとう。まだ、少し不安だけど、なんとかやってみるよ。いや、不安だなあ。ははは、やってみるよ。失敗したらまた聞いてくれ。ありがとう。」

「どういたしまして。」

 

文字におぼれて、間違いをおそれる。

 頭の中に文字が生まれていく。無限に文字が生まれて、頭の中で誰かが音読している。だからぼくは思考が音声として流れていく。音声言語タイプと言うらしい。

 生まれた文字は時間の流れの中で次々と流れていき、消えていく。

 「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」

 と言ったような感じで、次から次へと流れていく。

 流れていく、というのは音声になるという意味だ。文字が生まれて(これは視覚的に見えるということではなく文字を文字として認識した段階の、言葉になる直前の予感のようなものだ)、それが次々に読まれていく。

 音声よりも文字の方が圧倒的に早く生み出されるため、未消化の文字が頭の中に生まれて、溜まっていく。

 音声は文字に追いつかず、追いつこうとしたら思考のスピードを上げるしかないのだけど、思考の、つまり読み上げのスピードを上げると頭がつかれてくる。頭がつかれると、読み上げは停止するか、停止したくなる。しかし文字はその瞬間にも生み出され続けているため、脳は処理しきれない文字に溺れてしまいそうになる。

 文字に溺れそうになった脳内は吐き出す先を求める。ぼくはそういう時にメモアプリを開き、文章を書いています。

 スマホの小さな画面なら、タイプする速度は読み上げと同じか時に読み上げより早い。だからはやいスピードを持って文字を、変な話だけど、文字として固着することができる。書いておけばその瞬間の思考が形となって残るため、後で読み返して少し面白がることだってできる。たいていはくだらないのだけど。

 僕は文字を音声として捉えてしまうため、黙読ができない。いや、文章を読むときは黙ってるから人が見たら黙読に見えるかもしれないのだけど、実際は脳内で音読している。

 そうじゃない人がいるらしいというのをどこかで見たことがある。文字を文字としてそのまま処理できるタイプの脳があるらしい。速読というのもそういう技術なんじゃないかと思う。パターン認識的に文字を処理できるということなのだろうか。

間違えないように書きたいけれど、人間は間違える。間違えて覚えてることもあるし、ふと自分でも理由のわからないミスをすることがある。

 なんでこんな話を突然するのかというと、途中まで書いたけど、これ曖昧に覚えてるなぁと思ってやめてしまった文章があったからだ。

 曖昧であることを恥ずかしく思ってしまい、また曖昧であることを曖昧であると書くことを恥ずかしがってしまった。そんな自分に気づいた。保坂和志のエッセイを読んでいて気づいた。保坂和志の『読書実録』という本を読んで気づいた。間違えた。これは小説であってエッセイではない。ないらしいけれど、読んだ時の手ごたえを僕はエッセイだと感じた。しかし小説のようにも感じた。

 この本に限らず、保坂和志の書く文章はよく間違える。なんで間違えたかわかるかというと、本人が間違えたって書いているからだ。曖昧なところもわかる。なんでわかるかというと、本人が曖昧だと書いているからだ。

 僕の記憶が正しければ〜とか、〜と書いたが、ずいぶん時間がたっているので正しい記憶じゃないかもしれない。とか、〜なんじゃないかというようなことを思った、みたいな感じの但し書きが多く書いてあって、その潔さを見て、わからないところはわからないと書いて良いんだなと思った。

 作者が、わからないけど多分こうなんだろう、と書いている限り、それは嘘にならない。確かめたい人は確かめれば良いし、そうじゃない人は好きにすれば良い。わからなくても書いてしまう、思い浮かんでしまう、ということの方が意味があるような気がする。つい、というやつだ。つい、うっかり。不用意なことは悪くなくて不用意を自覚していることが大事ナノダロウカ。ここでカタカナにしたのは、頭の中でカタカナだったからだ。うそぶくような口ぶりというか、そんな感じの音声だった。心がこもっていないってやつだ。「本気で思ってないでしょ!」っていうやつだ。

 間違いは恐れず、間違いの恐れがあるところは丁寧に書いていこうと思った次第です。

 保坂和志の文章は読んでいてとてもわかりやすい。丁寧で、説明がうまいからだと思う。異常なほどに丁寧だ。いちいち止まってディティールを書いていく。だから、疲れる。けれど疲れをいとわず文章と付き合えばとりあえずわかる。状況はわかる。真意とかそういうのはわからない。裏の意味とか、そういうのは苦手だ。わかるのが苦手だ。わからなくてもとりあえずわかるから面白いのかもしれない。

 彼の文章は客観的だ。自分のことも他人のように書く。また、彼の文章はすべてが小説だ。小説的という言葉があるのかどうかは知らないけど、小説的に、それはたぶん、意味合いとしては、描写的に書いている。

 エッセイだと思って読んだら小説だった!というようなことが起こる。小説だと思ったらエッセイだった!かもしれない。正確にはどちらでもないし、なにを持ってその二つを分けるのかも分からないし、僕は高校生の時小説と随筆の違いがわからなくて、わからなくても国語の問題には取り組めたから、たぶん読み解き方や出題の仕方は小説もエッセイも同じで、そうであるならジャンル分けとはあまり意味のないものかもしれない。

文章の中を満たす「私」の濃度。

 濃度の濃いものは身体にこたえる。

 塩も醤油もかけすぎるとダメだし、味噌は濃度が濃すぎると溶けない。

 料理たとえをしてしまったけど、文章もまた料理と同じように複数の素材や味から構成されているはずで、その中でも「わたし」の濃度が濃すぎると、面白いけど、疲れる文章になる。

 俺は、俺は...。毎日、私は一人称を繰り返し繰り返し唱えて生活している。アメリカの電話会社が過去に行った調査によると、一日の通話の最中に一番使われる言葉が「私(大文字のI)」らしい。

 人間は一日に何度も私を唱えてる。私は特に多い人だ。我が強い。会話で、文章で、思考で、絶え間なく俺、俺、、、と言い続けてる。

 一人称の生活。一人称の人生。

 そこで生きていると、私はどうにも「俺」という言葉が鬱陶しくなってくる。

 他人に興味を持たず、自分のことだけを語り、感覚の中に閉じこもり、世界を思い通りに支配したい欲求が、絶え間ない「俺」に表れてるんじゃないかと思う。

 「自我」というやつだ。

 「SNSにより肥大した現代人の自我」といった文脈で使われる言葉だ。あんまりいいイメージはない。自我が強い人、と言われたら付き合いづらそうだし、自我ときたら、押し通すか、抑えるかのどちらかなのだ。あると邪魔なもの、極力小さくしたいもの、といった扱いを受けているみたいだ。

 その一方で、「自我をしっかりと確立する」というような、「確固たる自分」という意味でも使われる。精神にとって非常に重要なものとして扱われる概念であり、この場合「自我」は少しプラスの意味を帯びる。

 プラスにせよマイナスにせよ、「自我」は確固たるもので、重く、存在感が強い。私にとってはそんなイメージがある。そして「俺」という言葉は「自我」を連想させるので、確固たるものであり、重く、存在感が強い。それだけに、たくさん使っているとちょっと疲れる。

 みうらじゅんは、「自分探し」ではなくて「自分なくし」の考え方の方が気楽だと言っていた。それはきっと仏教に由来する考え方だろうと思う。

 自我は硬いから壊れやすい。壊れやすいのに、重いのでつい手荒に扱うことになってしまう。

 「俺はすごい」と思う一方で「俺はなんてダメなんだろう」と思ったりする。時には同時に思ったりする。「俺」とはいったい何なんだろう...と思いつつも、雪だるまのように色々な情報を取り込みながら「俺」は肥大し、硬くなっていく。

 気づけばこの文章も、省略されているのも含めてほとんどの主語が「俺」になっている。

 一人称の文章だ。だから、ちょっとこの一人称から脱却したいなあと思ってる。 

 三人称の小説が書ける人はすごいなあと、思う。かなり心から思う。文章の中にある自我の濃度をできるだけ少なくしたい。めちゃくちゃ多い人間だからこそ、そう思う。

 つぎは「私は」という主語を一切使わないで文章を書いてみようと思います。

読み終わりに日の暮れる

 小説を読むと、死というのを意識する。いま、これを読んでいるこの瞬間にも次々と時間が経過して、死に近づいている、感じがする。

 それはたぶん、読み終わりを意識しているからだろう。読み終わるまで何ページというのが、左手に乗っかっている本の厚みでわかる。何ページということは、何文字で、だいたい何時間くらいで読み終わるという計算を常に頭の中でしているから、これを読むということは、これだけの時間を費やすということであり、それはつまりその時間の分だけ生き終わるということだ。

 非常にみみっちい話だ。休日の一つや二つくれてやる覚悟じゃないと小説は読めない。しかし、それが惜しいと思うときがある。これは、小説に限っての話じゃなくて、演劇や映画でもそうかもしれない。でも小説が一番顕著だ。エッセイで時間を感じたことはない。評論や実用書でもない。

 読み終わりたいのか読み終わりたくないのかわからない。これを読み終わったあと、現実の世界では日がくれているだろうと思いながら目で文章を追っていると、なんとも心許ない気持ちになってくる。これは親に対する愛着にも似ている感覚だ。一生その小説の世界に閉じ込めてくれるなら、あるいはこの身体を捨ててその小説の中に飛び込み、寝食を物理的に忘れていられるなら、もしくはこれを読み終わる前に死んでしまえるなら、ぼくは読み終わった後に来る日暮なんて怖くないだろう。

 でも小説はあるタイミングでポンとぼくを投げ出してしまう。それは唐突に訪れる。いつか終わる。映画ならスタッフロールがある。演劇ならカーテンコールがある。しかし小説にはない。文庫版あとがきとか、解説とかはあるけど、それはなんだか少しちがう。何がちがうのかわからないけどちがう。ぼくは投げ出されるのが嫌なのかもしれない。だから、読み終わりたくないのだ。経験したことを巻き戻すなんて残酷なことはできないから、読み返すのも苦手だ。

 ぼくは彼らの行く末を知ってる。それなのに読み返したとき、彼らは自分の顛末を知らない。そんなの、ぼくにとっても彼らにとっても残酷じゃないか。ぼくは、彼らの気持ちを追体験しなくてはいけないし。彼らは、何度も同じことを繰り返される。嬉しいことも悲しいことも。小説は虚構だ。そんなのわかってる。わかっていても、それでもぼくは時を戻すことはできない。いや、やればできるのだけど、やろうとはしない。

 だからたぶん小説は結局、読んでいるときの時間にしか存在しなくて、それはあらゆる文章がそうなのだけど、それはたぶんきっと音楽的なものなんだと思う。音楽は繰り返し聴くけど、小説は繰り返し読まないのはなぜだろう。別れのスパンが早いからだろうか。音楽は所有できる感じがする。それは錯覚だとしても。小説はどうしても自分の一部になり得ない。自分の一部になり得ない小説をきっと良い小説と言うのだろうけど、読み終わった瞬間に来る別れや、世界の崩壊を余儀なくされる感じに耐えられないほど切ない。ぼくは。

 それはたぶん死のメタファーというか、名残惜しい感情とはつまり死の前体験なんだと思った。読み終わりが死なのだとしたら、読み終わるまでのページ数がわかるというのは、余命宣告を受けているようなものだろう。

 もちろん完全な読み終わりなんて存在しない。小説は読んでいる時間にしかないというなら、それぞれの時間において読書体験は絶対的だし新しいはずだから、好きに読み返せばいいのだという理屈もわかる。非常にもっともだ。

 読み返しに成功した試しはない。なんでだろう。まあぐだぐだ言っててもしょうがない。とにかく、小説を読むには覚悟が必要だ。生きる覚悟、死ぬ覚悟。ぼくは死んでもいい覚悟じゃないと小説が読めない。たぶん。身を預け、自分を消す。すべて覚悟の中にいる。怖れずいこうと思う。

いまここじゃない世界に触れるとき、いまここにいるぼくはどこへ行くんだろう。

 小説を読むときの、僕とはいったい誰なんだろう。小説を読むとき、とても心細くなる。これはどうしてだろうか。お芝居を見るときや、はじめての音楽を聴く時も同じような気持ちになるけど、小説の場合はひとしおだ。心許ないような気持ち。

 小説の主人公になり変わって読んでいるから、彼のたどる、世界の中での悲喜に引きずられてしまうからなのではないか、つまり、感情移入の問題なのだと、そう言ってしまえれば楽なのだけど、そう単純な話でもないように思う。

 茂木健一郎の本を読んだ時、科学の発見は暗闇を手探りで歩くのに似ている、と書いてあった。もし明るい場所であったら、その景色をパッと見てしまえば、どこに何があるかわかる。しかし、暗闇だったら、体でぶつからない限りはどこに何があるかわからない。右手をあと10センチ伸ばせば金塊が見つかるかもしれない。それでも僕は気づかずに左へ進んでいくかもしれない。

 小説を読むのも同じようなことなのではないかと思った。小説の中には、ここじゃないどこかが広がっている。それは世界なのだけど、1ページ目を開いた時、その世界のどこに何があって、どんな形をしているのか決してわからない。あらすじを読んだってわからない。語られているストーリーがどのような語られ方をしているかで、感じる世界が変わってきてしまうからだ。

 だから、小説を読み進める僕の視点は暗闇だ。主人公や、登場人物が感じたことや、書かれていることを頼りに、暗闇の中にイメージを描き出し、その中に入って行く。その中で僕は手を伸ばしてみる。すると、何かにぶつかることがある。そこに書かれていないものが見える。しかし、それは僕が感じていることではない。僕が暗闇の中に描き出したイメージの中で生きているのは僕じゃなくて登場人物だ。それじゃあ一体、このぼくはどこへ行くんだろう。

 小説を読むときに感じる心許なさは、このぼくが感じている心許なさだ。たぶん。小説を読むときに、数行読んだとき、暗闇の中に立ち上がるイメージの中で生きているのはぼくじゃない。けれど、そのイメージを立ち上げているのはぼくで、ぼくじゃない身体を使って、手探りしたり目を凝らしたりする。それを見ているのは登場人物だ。ぼくはこのとき世界を作り、世界を照らし、世界の中で動いている。しかしそれはぼくじゃなく、それを促している、もしくは、というか本来の作者はもちろん著者だ。ぼくは自分の中に暗闇を用意して、著者の言葉通りに照らしている。

 このぼくは、その時いない。いなくなった方が小説を快感にすることができる。それを人は没入と言うのかもしれない。ここじゃないどこかに完全に行きたいけど、完全に行ってしまったらぼくは消えてしまうのではないかという恐怖。その恐怖が、小説を読むときに感じる心細さなんだろうか。

 ぼくは消えた方がいい。しかし消えたくはない。しかし消えないと小説は、単純に面白くない。ぼくの声は、例えば、読みにくいよとか、そんなことあるまいよ、みたいな、そんな声は嫉妬や疲れや色々なエゴから来るのだから、そんなのはいらない。

 読む小説はもう手放しで面白いことが決まっているくらい、沢山ある。それらは実際素晴らしい。ぼくが、このぼくが変なツッコミを入れずに、小説の中に怖れなく入り込めたら。

 どうしても怖い。ドキドキする。暗闇だからか?自分がどこにいるのかわからなくなる。それは怖いけど快感だ。ぼくは誰なんだろう。ぼくは一人称のぼくではないし、母でもレイ子でもKでもないはずだ。今は、田中小実昌さんの『ポロポロ』を読んでます。

「文語」と「口語」の違いについて1時間くらいかけて考えてみた。

 文語と口語の違いがわからない。たぶんこのブログは文語で書かれているはずだ。そうだと思う。「〜である、〜だ、口調が文語です。」と遠い昔に習った気がするからきっとそうだ。

 最初の文の「わからない」を「わかんない」としてしまえばこれは口語だろうと思う。口語とはいわゆる話し言葉のことらしい。話し言葉とは、話すときの言葉の使い方とか、雰囲気とかのことだろう。「口語とか文語とかわかんない」と言ってしまえばこれは話すときの雰囲気がするのできっと口語なのだろうと思う。

 国語の授業を受けていたはずなんだけど、僕の国語力とはこの程度だったらしい。凹むのも早々にとりあえず、わからないのだから「文語」と「口語」を自分の中で定義しなくてはいけない。ひとまず「文語」を、〜である、〜だ。を使うやつ。と決めつけてしまって、それ以外を「口語」ということにしてしまおう。

 口語=話し言葉と一口に言ってもいくつか種類があると思った。若い女性と初老の男性では言い方も違うはずだから、これを全て口語として括ってしまうのはちょっと乱暴じゃないかなと思う。ギャルとおじさんでは同じ口語でも使い方が違う。

 「ねぇキミ、ピカチュウとは一体なんだ?」「ピカチュウがわからないのだが...」と言えばおじさんで、「ねぇ〇〇、ピカチュウってなに?」「ピカチュウがわかんないんだけど」(〇〇にはお好みの固有名詞を入れてください。)と言えば少しギャルっぽくなる気がする。おじさん観やギャル観が少しずれてるかもしれないけど、大事なのは違いがあるということだ。

 これら個別の話し言葉は「おじさん語」や「ギャル語」であって「口語」ではない。だからきっと「口語」はたくさんの種類があるものを括ったひとつの入れ物だということだ。その場合、比較対象としてかっちりと決まった体系というものがあるはずだ。

 たくさんの種類があるものを括って一つの「口語」というカテゴリにしているのだから、きっと「口語」とは「口語ではない何か」以外のものだと定義されるはずだからだ。

 この「口語ではない何か」「かっちりと決まった体系」というのが「文語」ということになる。

 だから、口語と文語がわからない僕は、文語だけわかればいいことになった。文語以外は口語。上の定義に従えばこれでいいことになる。間違っているかもしれないけどそれはそのときあらたに勉強をすれば良い。

 ここまできてようやく僕は「文語」をグーグルで調べることになる。

【文語】

 1.文章だけに用いる特別の言語。平安時代の文法を基礎として発達した。

2.文字で書かれた言語。書き言葉。

 この「1」の定義はわかりやすい。「文語」とは「特別な」言語である。ということだ。ありがたい。「文語」と比較して「口語」を定義する根拠ができたから。さらに、「文語」は平安時代をルーツとしているらしいこともわかった。

 しかし「2」には困った。だって、書いている言葉は全て「文語」ということになってしまうからだ。「書き言葉」というあらたな概念も登場している。この書き方だと、「書き言葉」とは「書かれたすべての言葉」を意味するように受け取れるから、「書かれた話し言葉」はつまり「文語」なのだろうか。「話し言葉」は音声の中にしか存在しない。「2」だけを考えるならそう言ってしまえる気がするけど、これはまず間違いなく詭弁の類に思える。

 しかしこの「書き言葉」=「書かれた言葉」という定義は少し納得するところもあって、それは講演やラジオの文字起こしを読んだときに感じる物足りなさがここに説明されている気がするからだ。音声であれば「わかる」話し言葉も、文字として見ると「わからない」とか、「つまらない」となってしまう。

 やっぱり「書かれた話し言葉」は「書き言葉」の一種だということになるのだろうか。であれば、口語という括りはここに来て「書かれた話し言葉」として定義できることになる。

 ここまでの理解をまとめれば、文章と音声の間に「書き言葉」⇆「話し言葉」という対立が存在する。これは「書かれた言葉」⇆「話された言葉」の対立とも言い換えられる。

 この「書き言葉=書かれた言葉」をさらに分けていくと「口語」と「文語」に分かれる。「口語」とは「書かれた話し言葉」のことであり、「話し言葉の記述の仕方」ということになる。「文語」とは、「1」の定義どおり、文章においてのみ現れる、特別な記述の仕方ということだろう。

 「口語」で検索してみる。

【口語】

1.日常の談話などに用いられる言葉遣い。話し言葉。口頭語。音声言語。

2.明治以降の話し言葉と、それをもとにした書き言葉とを合わせていう。

 ということになっている。

 「口語とは書かれた話し言葉である」と、「2」に明確に書かれている。助かった。

 口語とはつまり「話し言葉」を基にした「書き言葉」なのだ。明治時代の人は「書き言葉」だけでは満足できなくなったのだろうか。なんらかの理由で「話し言葉」を文章として扱う必要があったから、明治時代にこの記述法が生まれたのだろうと推測した。「言文一致運動」とかいう言葉を聞いたことがある。きっとここに関わってくるんだと思う。

 とにかく、「文語」、「口語」のカテゴリごとの定義ができた。でもあんまりよくわかってない。少しわかった。これ以上分かるためには、特別な言語である文語のことを知らなくてはいけない。すると、平安時代の勉強をしなくてはいけなくなる。困ってしまった。

 でも、わかるための道筋は見えてきた。これは僕の勉強ノートみたいなものだ。口語を使えるようになりたい。面白い話を書きたいし、面白く話したいなあ。きっとできるだろうと思ってる。今日も見てくれてありがとうございます。

話が面白い人の書くものって面白いよね。

 語り口にパッションの宿っている人は書くものにも宿っていく。

 語り口が面白い人は、そのまま本を出せる、逆に、語り口のつまらない人は本なんて書けないと、どこかで編集者が言っていたのを聞いた。

 聞いたんだと思う。自分で思い込んだのかもしれないが、そういう言葉が記憶に残っている。

 人間とは不思議なもので、話を理解する時に、語っている内容はたったの7%しか入ってこない、残りの93%は何かというと、見た目の印象や身振り手振りが大体60%くらいで、音声の要素が30%くらいらしい。詳しいことはノンバーバルコミュニケーションと検索すればいろいろ出てきます。

 内田樹がラジオで言っていたのだけど、人間の感情が昂ったり、何かを伝えようと必死になっている時、喋り声に「非整数次倍音」というのが出るらしい。

 「非整数次倍音」が出た声は、良い声とか、感動を呼び起こす声になるというのがわかっている。以下それを説明する。

 声って実は単一の音ではなくて、ある音が声帯で作られると、声帯で作られた音を基に、整数倍の周波数の音が鳴っている。

 この同時に鳴ってる音のことを「倍音」と言います。聞いたことあるかも。

 整数倍の周波数の連なった音をいわゆる「協和音程」という。普通喋る時僕らは濁りのない音を発している。

 濁りのない音というのは一見良いように思うのだけど、実際は違って、そういう音は強い印象を残さない場合がある。

 「非整数次倍音」というのは、倍音の中でも整数倍の周波数ではなく、不規則な周波数を持つ音であり、いわば濁りを生み出す音ということだ。

 つまり人間が感情が昂ぶると、不協和音を発声してしまう。この非整数次倍音が聞こえると、人間は感動したり、良い声だなあと思ったりする。

 何が言いたいのかというと、人間は声に感情を乗せることができるということだ。

 感情がある方向を向くと、声もまたそれに従っていろいろな変化を起こす。

 そこで、最初の言葉に戻るのだけど、語り口にパッションが宿っている人の書くものには、やはりパッションが宿っているのではないだろうか。

 それは、語り口の面白い人は書くものも面白いというのと同様に。

 語り口が面白い人は、話の内容が面白いだけでなく、その内容にパッションを感じて、何かを込めることのできる人だ。

 声の伝える情報伝達量は内容が伝える情報伝達量よりも23%ほど多く、つまり声がいい人の話は聞いてるだけで何か良いように思う仕組みが人間にある。

 そして、声がいい人、特徴的な人の声には非整数次倍音が確認でき、それは感情の昂り、つまりパッションによって生まれる。

 よって、話している内容に感情移入できる人は、人により多くの情報量を伝えることができる。

 情報量の多い話を人は面白いと思うので、つまり語り口の面白い人とは声と内容で感情を表現できる人のことであり、話す内容と感情がリンクしている人であると言える。

 編集者曰く、語り口の面白い人の書く文章は面白いらしい。

 愚直にそれを信じるなら、声と内容で感情を表現できる人は、文章でも感情を表現できる人だ、という風にも言える。

 そのとき大事なのは、内容ではなく、内容をどう語るか、つまり論理構造と文体だということなのだろう。

 ずいぶんと長いこと書いたけど、当たり前のことに行きついてしまった。

 話すことが面白い人は、書く文章の論理構造と文体も面白いのかもしれません。

 逆に、書く文章が面白い人は、話すことも面白いかもしれない。作家のラジオと著書を見比べたりして遊んでみると面白いと思う。

 僕はラジオが好きです。本を読むのも好きです。

 僕はじっくり話を聞いてくれたり、めちゃくちゃな論理や文体に付き合ってくれる人にとっては、面白い人だと思います。

 喋り方と文体をなんとか伝わりやすいものにしよう、と最近思ってます。

 漂識ゆきさんというひとは語り口も書くものも面白いです。ツイキャス一回しか聞いたことないけど面白かった。

 

 2020 6/2 フェレットのしつけ。