ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

人にできるだけ期待をしてもらおう!

 期待はできるだけしてもらった方がいい。

 なぜならその方が見ている人にとって面白いからだ。見ている人が面白ければ、自分にもまたメリットが来る。

 今日はこの、「期待」について考えてみようと思う。

 期待をかけさせる、期待させる、というのは相手を可能世界に引き摺り込むということだ。

 全ての行動にはいくつもの可能性があり、その可能性がどこに転がるかわからない。

 自明だと思われていることだって可能性の間で揺れ動いている。

 いま踏み出した右足がつってその場で倒れて頭を打って打ちどころが悪くて出血した場所から菌が入って意識を失い、なんやかんやあって世界一の大富豪になるかもしれない。

 可能性の世界を見るのはとても面白い。

 そして期待をさせるというのはその可能性の世界、自分の可能性の世界に人を引き摺り込むということだ。

 だから、期待はかけてもらった方が色々と得なことも多い。期待した人も面白いし、自分もメリットを得られる可能性がある。

 注目されたくない人はやめよう。期待されると必ず注目されてしまうから。僕は自己顕示欲がヤバイので、劇薬たる期待とはいい距離感を保とうと思ってます。

 裏切ったっていいのだ。というか、期待は裏切られるために存在する。

 期待とは、成功と失敗の可能性のどちらかに賭けるということであり、また賭けたとしても、その賭けは常に成功と失敗の可能性を孕んでいる。この入れ子構造の可能世界へのコミットのことを期待と言う。

 自分以外の可能性に対し、自分の可能性を持って主体的に決定する行為とも言えるだろう。

 どのような事態も、可能性は複数存在する。結果が出た段階でそのいずれかは必ず裏切られるのだから、期待とは必ず裏切られてしまうものだ。

 裏切るというのは悪いことじゃない。

 悪い方向に裏切ると詐欺と呼ばれてしまうが、良い方向に裏切る分には一切構わない。それどころか人は熱狂する。賭けというのはどっちに転んでも面白いのだ。だからギャンブルは流行る。

 また、何かの事象にたいして、成功の側に賭けるのが期待であり、失敗の側に賭けるのは、特に言葉はないが足を引っ張るとか、そのまま失敗を願うとかそういう言葉になるだろう。しかしこれは、自分がしたその賭けに成功することを予期した上での賭けなので、これもまた自分の決定に対する期待である、

 期待とは自分以外の状況と自分の主体性の入れ子構造であるから、あらゆる賭けは期待を内包している。

 つまり、期待させるというのは他の誰かを賭けに乗らせるということだ。賭けというのはうまく行ってもうまくいかなくても注目を集め、面白い。

 そして期待をかけさせるという行為もまた大きな賭けとなる。なぜなら、注目を集める分、その成功と失敗は自分だけのものでなくなるからだ。

 成功すれば讃えられ、失敗すれば、多分いまの世の中だと炎上するだろう。よくて無視される。どちらにせよ悲しい。

 先ほど期待は劇薬だと言ったのもそのためだ。

 このように期待は非常に面白く危険の多いギャンブルだ。使いこなせばきっと多くのメリットを生むだろう。(それに比例して多くの失敗も生むけど。)

 今回は、期待してもらうためのテクニックを紹介し、他人をどのように自分の可能世界に引き摺り込むかを具体的に紹介しようと思う。

 甘く危険な期待の世界をどうか楽しんでみてほしい。ただし、自己責任でね。

 


 期待してもらうためのテクニック

①何かを勝手に「背負う」

 なんでもいいから勝手に何かを背負って立つことは、人を熱狂させる。ラグビーを例に話していこう。

 2015年、ラグビーワールドカップで、日本代表が強豪、南アフリカ代表に勝つという「事件」があった。

 あえて「事件」と呼ぼう。これは世界に大きなインパクトを与えたからだ。

 なぜ大きなインパクトを与えたかというと、ラグビー弱小国の日本が、強豪たる南アフリカに勝利したからだ。

 これは順当な予想を裏切ったことになる。

 弱小vs強豪という固定観念みたいなものを裏切ったから「面白かった」のだけど、そもそもこの括り方に注目して欲しい。

 「代表」というものの構造についてだ。

 僕は正直彼ら個人個人の選手が日本を背負っているとはつゆも知らなかった。それぞれの顔やプレーを見てもわからないだろう。それは僕が日本代表の選考委員でもないし、ラグビーに詳しくもないからだ。

 でも、ニュースを見るとどうやらその人たちが、僕の住んでる日本の代表らしい。

 そう言われるとわかる。個人としての選手は知らなくても、日本の代表と言われれば分かる。僕の代表で、僕らの代表だ。僕はラグビーができないから、代わりにこの人たちがラグビーをやって、勝敗を決めてくれる。

 そう、ここを見て貰えば分かるように、代表とはそのコミュニティに属する全ての個人の代表なのであり、選手一人一人を知らなくても、その人が代表だと言われた瞬間にその人の問題は自分のことになってしまう。だって自分の代わりでもあるのだから。

 つまり、「〇〇の代表です」とか「〇〇を背負って」と言うと、〇〇の人々はその人たちに何かを勝手に託すことになってしまう。他人事ではいられない。彼らは僕の代表なのだから。

 こういうことを言うと「いや、俺は彼らに代わりなんて頼んでない」とか「勝手に代表だと言ってるだけで俺は関係ない」と言われるのだけど、それは確かにそうだ。

 代表とは勝手に「代表されてしまうもの」だからだ。勝手に決められている。なのに個人と関わりがあるから、そういう反発を生む。個人との関わりが一切なければ、反発もなく、意識にも上がらないだろう。

 それに、多くの人はこの仕組みに気づかないので「代表」という言葉の魔力、つまり自分ごとになってしまうという事実にやられてしまい、つい期待をかけてしまう。もしくは悲観的に見る。下馬評というやつだ。

 下馬評が裏切られると、悪い方向に裏切られた人は悲嘆に暮れて、良い方向に裏切られた人は狂喜乱舞する。

 それはどちらに転んでも熱狂というやつだ。熱く狂う。人間は他の全てがどうでもよくても自分のこととなれば熱狂できる。

 なので、期待をかけてもらい、熱狂を作りたいときに手っ取り早いのは何かを勝手に背負ってしまうことだ。

 そうすればその何かに属する人の中から数%は自分ごととして見てくれて、目を離さないでいてくれるだろう。

 この時、背負う何かはできるだけ大きい方がリターンも大きい。炎上というリスクはありますが、それは個人の判断で一番美味しいところにポジションを取りましょう。

 僕のオススメは「年収300万以下」とか「素人童貞」とか、具体的で弱者感のあるやつ。

 もっと言うと、ある価値観での弱者性みたいなものを肯定できるとなおいい。

 ボリューム層として一定の数が見込めるし、弱者を背負うことで、成功した時の話題性が大きい。ギャップの大きさを楽しんでもらえるだろう。当事者集団は熱狂するかもしれない。それに弱者の側にたてば、失敗しても優しく受け止めてもらえるのだ。

 ※この文章は皮肉です。実在の人物、団体、企業などとは一切関係がありません。

虫みたいな人間は退屈なだけだ。

 

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 言葉を書き続けないと、自分が自分でなくなってしまう気がする。なんとなく、危機感に駆られて、危機感だけに駆られてこれを書いている。

 こういう風にしたら長い文章が書けるとか、詩が書けるとか、音楽が書けるとか、そういうのはわからない。わからないなりに様々な方法論を追ってきた。

 もしくは、分析してきた。これを三回続けた後にこうなる、みたいな。リズムに根差したパターン解析だ。

 でもそういう方法論で作ったものには飽きてしまう。僕は何にだって飽きるけど、飽きが早い。

 僕は言うなら方法論ジャンキーだ。メソッドジャンキー。ヤンキーになれない。やり方を教えてもらってその通りに動く優等生だ。優等生だった。だったことにしたい。いつだって先生はボクを真面目だと言うけれど、先生、違いますボクは臆病なだけです。

 戦うのは空しい。嫌なものと戦うには、相手のことを知り、自分をその文脈の中で理解する必要がある。

 敵を知り、己を知れば百戦危からずってやつだ。

 でも今超ハイスピードな世の中で生きていくのに100戦じゃ全然足りない。一日にそのくらい戦ってる。知ったはずの敵も、己も、すぐに忘れて不安定になる。知識が足場だとすれば、それは毎日崩壊していく。

 戦いはどこで起こっているのか。

 戦いは自分の中で起こっている。

 戦いは情報と自分のせめぎ合いの中で起こっている。インターネットは情報を増幅させる。一つのハッシュタグが500万の情報を生む。500万の感情とぶつかる。そのボリューム感は、さすがに孫子と言えども考え付かなかっただろう。

 

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 「ここは地獄じゃありません 心の中が地獄です」

 アーバンギャルドは歌った。 

 僕の心の可愛い少女は黒いタイツを履いて、姿見に映った自分の姿を見ながらこの歌詞に胸をときめかせてる。

 中学生のころから、胸をときめかせてる。

 ボクは今超ハイスピードで大人になりつつある。

 世の中を受け入れられる気がしている。

 小6くらいから感じていた自分の発達の不全感が無くなろうとしている。

 斜に構えて冷笑的に見ていた世界と、なんとか折り合いをつけようとしている。

 理不尽なんて笑い飛ばして、今ある全てを楽しみ感謝するみたいな世界観に行こうとしている。

 それはいいことだ。絶対にいいことだ。

 なのになぜか分裂や衝突の危機を感じてる。

 何かをしたいけど、なんにもしたくない。

 今は言葉を書かないと自分が保てない。これで自分を確認している。自分の中の定点観測装置が崩れようとしてる。

 大企業に勤める人間なんて、ほんとうに羨ましくない。

 安定なんかしたくない。つまんない30代になりたくない。

 好きな人と好きな人の好きな人だけ幸せなら良い。

 でもきっと好きな人の好きな人を辿っていけば全世界70億にはすぐ到達するだろうだから誰でも幸せを願っているよ。

 犯罪者も、トランプ大統領も、黒川さんも。

 虫みたいな人はただ退屈なだけだ。

 退屈だけど楽なら良いなんて嘘だ。

 20代ででっかいこと言ってたやつが30代になって才能のなさに気付くなんて、悲しすぎる。

 結局のところこの社会規範から飛び出したいってずっと言ってる。

 希望系である限りは飛び出せてない。

 自ら考え、ためして、傷つかなきゃいけない。これは村上龍と、坂口恭平と、茂木健一郎が言ってた。

 傷つくのが怖い。リスクをとりたくない。

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 「最初の反応は大抵ひどい。人々がこれはなんだと喚きだす瞬間がチャレンジの始まりだ。」

 ピーター・ブルックはこう言う。俺はみんなから批判されるようになりたいんだろう。でも、誰からも批判なんてされたくない。

 何にもなりたくない。

 全ての人に愛されたい。

曽我部恵一を中心に、志磨遼平や椎名林檎の人間じゃない感じについて書いた記事

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 数ヶ月前に発売されたサニーデイ・サービスの新譜『いいね!』を久しぶりに通して聞いてみた。

 サニーデイ・サービスのフロントマン「曽我部恵一」は毎年のように二十曲入りのフルアルバムをリリースして毎年歌も演奏も販売戦略も良くなっていくという変態的なアーティストで、素晴らしい音楽家です。

 もちろんそれぞれのアルバムが良いのだけど、クオリティは毎年上がっていってる気がする。恐ろしい人だ。

 恐ろしい人なのだが、彼には恐ろしさや才能ゆえの近づき辛さを感じさせない、「等身大の人間」感がある。

  それは曽我部恵一の歌にある謎の手触りと関係しているだろう。あまりにも生々しい、人間的な手触りだ。

 「コンビニのコーヒーは うまいようでなんとなくさみしい」

 「私は出て行くの 日傘をさして あなたを残して」

「キッチンでは洪水 取り返しもつかない」

 歌詞の生々しい生活感。恋に生きる少し軽薄な兄ちゃん、みたいなイメージ。

 甘い歌い口、声のトーン、音色、ギター、アレンジ、その全てが非常に人間的で日常的で親しみやすい、親しんでしまう、変な話だが、同じ目線で共感してしまう手触りがある。

 

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 志磨遼平というアーティストがいる。

 これを読む人は、彼についてどのようなイメージを持っているだろうか。ペテン師、悪魔、それとも救世主か、ヒーローか。人間とはちょっと違うのか、それとも極端に人間的なのか。

 おそらく、この中のどれをとっても、そのすべてを合わせても彼の一部でしかないだろう。

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 イメージ一つとっても志磨遼平は変幻自在で安定しない。僕たちを幻想で惑わせて、彼の人間性にはどこまで行っても近づけない気がする。

 しかし、そういうイメージと反対に彼が作る曲は音楽の構造上とても安定している。

 コードもリズムもカチッとしていて、ロックやポップやファンクなどそれぞれの様式にピッタリはまった曲を書くのが非常に得意だ。

 きっと音楽がめちゃくちゃ好きで、それぞれのジャンルに対するリスペクトがあるからできることだろう。

 メロディもキャッチーだ。言葉もしっかりしている。そこには確かな実力があり、音楽のつくりだけを見ると彼はとても安定している人のように見える。

 でも、しかし、彼の歌唱を聴いて、ステージ上でのパフォーマンスを見て安定している人間だと感じる人はいない。

 不安定だ。錯乱している。安定と不安定の狭間で揺れている。揺れているからセクシーだ。揺れているから、心をかき乱される。

 曽我部恵一は彼の音楽をあんず酒のように甘いと形容していた。息を吹きかけたら全てが薔薇色になってしまうような歌を歌うアーティストになるだろうと述べている。甘く安定感のある音楽の上で錯乱し狂気する。友人は彼を「危険」だと評していた。

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『演者が物理的に危険なことをしているわけではなく、ステージ上の彼を見ていると呑まれそうになる。魂ごと引っ張られるというか。そういった意味で、ひたすら危険という感想が浮かぶ。』

 

 

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無罪モラトリアム』を数ヶ月ぶりに聞いている。

 「歌舞伎町の女王」までは椎名林檎が書いた気がする。まだ人間が関わっているような手触りを感じる。

 けれど、「丸の内サディスティック」はどう考えても人間業じゃない。演奏、構造、歌唱、歌詞、言葉の捌き方、どれをとっても完全に人間を超えている瞬間の連続。

 この曲はもう全部を通して神とか妖精とかそういう存在が関わってるとしか思えない。

 だから、この曲が他と比べて素晴らしいと言いたいわけじゃなくて、人間業じゃない曲として絶対的に素晴らしい。

 他の曲は人間的な手触りを感じられる曲として絶対的に素晴らしい。僕は「ここでキスして」が好き。

 「丸の内サディスティック」の次に配置された「幸福論」を聴いて少し泣いた。

分けて、決めて、配置することーー永井 希 著『積読こそ完全な読書術である』を読んで。

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 永田希著『積読こそ完全な読書術である』を読んだ。

 僕は一昨日、これを読みながら寝ずに本の配置をしなおした。


 とても面白かった。簡単に言えば、現代社会の情報過多への抵抗の仕方について書かれた本だ。

  現代人は、あらゆるメディアで作られ、過剰供給される情報に押し流されて、様々なコンテンツを脳内の「あとで見る」フォルダーの中に積んでいく。

 見ようと思っている映画、聴こうと思ってる音楽、勉強しようと思った外国語。

 人生を全て使ったってまるで足りない量のコンテンツが日夜生産され、蓄積され続けている。

 著者はこのような、あらゆるメディアで情報が鑑賞されることなく氾濫し、蓄積され続けていく状況を「情報の濁流」と呼び、「情報の濁流」の中で未消化のものが積み上がっていく環境を「積読環境」と呼んでいる。

 僕たちは自分の意思に反して、あるいは無意識的にコンテンツを積んでしまう。それは、社会そのものが巨大な「積読環境」を形成しているからだ。

 著者は、情報の濁流の中を押し流されて無秩序に積読するのではなく、積読の後ろめたさに耐えつつ、自律的な積読環境=「ビオトープ積読環境」を作れと僕らの背中を押してくれる。

 ビオトープとは生き物が暮らす環境を意味する言葉で、知識の有機的なつながりのことを比喩的に言っているのだろう。

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 著者はピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』と、モーティマー・J・アドラーの『本を読む本』の読書論を紹介する中で、このように述べている。

バイヤールは、「鉄道交通の責任者」が「列車間の関係」に注意しなければならないように、「本と本との関係(つまり大きな文脈の中での本の位置づけ)」に注意を払うべきだ、と述べています。

(78ページ)

 

あなたがこれから何かの知識を得たい、あるいは何かの書物を楽しく読みたいと思ったときには、自分が何をテーマにするのかを決めることが重要です。

 大事なのは、テーマをとにもかくにもひとまず「決める」ということです。(117ページ)

 

テーマを決めるのは適当でいいし、適当に決めたテーマを、さらに適当に変化させるのもいいのですが、「自分が今何をテーマにしているのか」を見失うことだけは避けなければなりません。(124ページ)


 (イーストプレス 永田 希 著『積読こそ完全な読書術である』より)

 

この二つの意見を取り入れた上で、著者は、とりあえずテーマを決めてしまい、そのテーマの中でそれぞれの本がどのように位置しているかを整理することで、自律的な一つの「ビオトープ積読環境」を作ることができると述べている。

 自分の「ビオトープ積読環境」は、単なる知識の整理術にとどまらず、巨大な「積読環境」である現代社会の「情報の濁流」から身を守るシェルターとしても機能する。

 「ビオトープ積読環境」は「知識の生態系」でありダムやプールじゃないので、定期的に手を入れてやれば新陳代謝を繰り返し、生態系はさらに豊かになっていく。

 ビオトープの維持には手間がかかる。干上がったり決壊してしまう恐れもある。

 それでも「情報の濁流」にこれ以上ただ黙って飲み込まれているわけにもいかないのだ。

 

  一昨日、僕の部屋には本が積み上がり始めていた。僕は小さな頃からずっと「情報の濁流」に飲み込まれ、もがいている。

 最近はそのもがきも虚しく、濁流は胸のところまで押し寄せてきて、部屋は決壊寸前、自分は窒息しかかっていた。

 だから、できるだけ早く、いつ決壊するかわからないとしても、それでもここに、この部屋に「ビオトープ積読環境」を作らなくてはいけない。そうしないと部屋の方が決壊してしまう。

 そのために、とりあえずテーマを決めて本を分類し、本棚の整理をやり直すことにしたのだ。

 テーマに沿って本を分類して、本棚に配置していくことで僕の「ビオトープ的な積読環境」は可視化することができるようになる。

 自分の知識を構造物として本棚の中に立体的に配置していくことーーそこにはレゴブロックのような快感があるように感じた。

 あるいは、シルバニアファミリーのおうちの中でお人形遊びをしている時のような喜び。

 分けて、決めて、配置することの快感。

 千葉雅也は、諸要素の関係性と配置こそが芸術の問題である、と言う。

 大きな文脈の上でのそれぞれの本の関係性が大事だと主張するバイヤールの言葉を思い出した。

tomo-dati.jugem.jp

 意味の非意味的享受。

 小笠原鳥類の文章を読むと、言葉は、どういう関係性の中に配置されるかによって意味や感触を大きく変えるのだということがわかる。

www.faust-ag.jp

 村上龍は、複数ある情報を組み立てて小説を書いていると言っている。

 この情報という概念が何なのかよく分からなかったし、今でもわからないのだけど、意味をそのまま受け取るなら、ここでもまた諸要素の配置が問題になってくる。

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「『配置こそが美徳』なんて」

 この歌詞は、芸術について語っているのか、それともシステムについて語っているのか。

 システムと芸術は、どちらも配置を重要視する。

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 組み合わせて、別の存在を作ることの快感。元あった形を無理やり組み合わせ、全体像を変えてしまう改造の快感。

 コネクトの快感。ディティールによりフレームが変化することの面白さを僕はずっと感じ続けている。

 細部として分裂していくアメーバの集まりというモチーフは多分ここから来ている。

 

 コネクトする快感とは一体なんなのだろう。

to-ti.in

 弁証法の根本には、コネクトの快感がある。

 破壊、混ぜ合わせ、ぶつかり。

 「人と会う時間は、自分と他人がぶつかる時間でもある」という話を友人とした。

 外出自粛を要請されているため、最近は人と会う機会がないっていう話題の時だったと記憶している。

 人と話していて楽しいのは、他者とぶつかる中で、お互いが構成要素にするすると分解されていき、相手の意見や、空間のようなその場の何かと組みあわさって混ぜ合わされて別の何かになる、変身していく、改造されていくことの快感なのかなと思った。

 何かとぶつかることは自分を改造し、相手をも改造していこうとする試みなのかもしれない。

 その試みは必ず失敗に終わる。

 自分の思いどおりに行かなくて怒ったり悲しんだりする人間の精神は、僕の中にもあるけど、相手を改造しようとして失敗することの虚しさから来るのかもしれない。

 相手の改造なんて絶対に叶わない願いだ。だから、力と力の戦いは虚しい。自分の力に、相手の改造を期待したら、殺すしか無くなってしまう。

 コネクトの快感とは、自分が崩れる快感だ。相手を崩す快感ではない。たぶん。お互いに崩れあい、ズブズブになって変身していく過程の中に快感がある。その様はアメーバに似ている。

煩悩のひと

 「空(ソラ)とはなんでしょう?」

 という問いかけに見えた。お昼の眠りから覚めた僕の目に入ってきたスマートフォンのホームページのタイトル。

 ほんとうは「空(クウ)とはなんでしょう?」というページだった。空(クウ)とは仏教の用語のことだ。

 クウソクゼシキとか、ゴウンカイクウとかのクウ。

 読んでいた本の中に仏教の言葉が出てきたから寝る前の僕は調べていたんだと思う。

 でも起きてからの僕はクウではなくソラの方が頭の記憶の上澄みに上がってきていたから、ソラと読んだ。

 だって、ソラとはなんでしょう?の方がロマンチックな問いかけだから。

 僕は生まれてからソラとは何か考えたことがなかったなあと気づいた。

 クウが何かを考えたことはあった。はっきりと分からなかったから。

 空即是色、五蘊皆空、とかいう言葉を聞いたことがあると思う。

 空とはつまり色(シキ)であり、また色を含めた人間の認識はまた空である。

 というような意味らしい。

 聞いたことある人もない人も、ここで聞いてしまった以上「空(クウ)って結局どういう意味なの???!?!!!」という疑問が浮かんでしまうだろう。

 空とは何かを聞こうと思ってたら、色とか五蘊とかまた新たな概念が登場するのだから。

 分からないものを分からないもので説明されても分からない。ファルシのルシがコクーンでパージみたいな感じだ。仏教はだいたいこの論法な気がする。つまり言葉で理解できるものじゃないってことだろうと思う。ずるいよねそういうの。

 いや、仏の心を理解したいと思う心もまた煩悩なのです。。。。

 煩悩なのでしょうか?ぼくにはわからないことだらけだ。

 そのくらいクウというのは難解だから、クウとは何かを疑問に思うことは自然だ。

 でも、ソラが何であるかを疑問に思ったことはなかった。ソラは自明で、目に見えて存在しているからだ。

 ソラはどうして青いのか、とかソラを飛ぶためにはどうしたらいいのか、とかソラにまつわる疑問はいくらでも出てくるけど、じゃあそのソラっていったい何?という疑問は、考えてみると今まで感じたことがない。

 だから、ロマンチックだなあと思った。

 かわいい女の子とそういう話をしたい。

 「ねえ、ソラっていったいなんだと思う?」みたいな。

 「青いもの。」とか「気持ちいいところ」とか「宇宙のこと?」みたいな感じで返答が返ってきて、ああでもないと話すことが理想だ。

 というかむしろ女の子の方に問われたい。

 「ソラってなんだと思う?」

 もうその瞬間にキュンとくるだろう。3秒後には、恋に落ちる。

 そういう機会はなかなか無いだろうけど、考えるのが大事だ。妄想はぼくを幸せにする。何故だか。言葉の上での妄想こそ今目の前に存在しない、クウの最たるものだと思うのだけれど、幸せになる。(五蘊皆空とは、色受想行識という人間を成り立たせる五つの要素すべてが空であるという意味。妄想はこの中の想にあたる。先ほどの妄想もまたクウです。)

 煩悩の塊だ。ぼくは。108回の鐘では多分足りない。

 まあそれでもいい。新たな疑問を感じるのが好きで、女の子が好きだ。好きなことをやるのが一番いい。いやなイメージは考えないでいると本当に健康になるのだという。

 ソラとはなんだろう?

 なんだか分からない。

 オゾン層レックウザが住んでいて、デオキシスが隕石とともにやってくるのだ。

 小さいときはけっこう真面目に信じていた、ぼくの大好きなイメージです。

柴田ヨクサル『エアマスター』 第三巻 178ページ 一コマ目を見て眠れないはなし

「あれは一目ボレの超強力版だったな......」

「0.1秒ごとに好きになっていくカンジでさ...」

「3秒後には

 この世のこの時代に生まれてきてよかと思った...」

「この娘(コ)に会えたんだからなって」

(出典元:柴田ヨクサルエアマスター』二巻 第14話 ジェッツコミック)

 


 ビルの上から落ちていくマキのバックに東京の名前のない夜景が広がっている。

 雑居ビル街の裏路地で、ビルの屋上で戦闘する。舞踊のように。

 こんな感じの絵だ。たしかに絵だ。

 柴田ヨクサルさんの『エアマスター』の三巻、第24話、178ページの出来事。

 どうしてこんな絵を描けたのだろうか。

 言葉では言えない。鮮烈とか、キレイとか、形容はできるけど、形容することではこの絵にも、この絵が喚起する何かにも決してたどり着けない

 見ないと意味がない絵だ。一コマ。六コマあるページの一番上にある横に長い長方形の一コマ。

 いま、マンガワンというアプリでエアマスターが読めるので、読んだことがない人は是非読んでみてほしい。読んだことがある人も読もう。

 初回ダウンロード者にはたぶん100話分くらいのチケット?ライフ?なんらかの読む権利が与えられる筈なので、だいぶ長いこと読める。

 ぼくも今少しずつ読んでいる。そしてマンガワンで言えば第24話の八ページ目から先に進めていない。

 一コマ目から進めていない。

 進めない。感情が何か出てきてしまってどうしようもないから。だから、こんな風に無意味な描写をしてしまった。

 圧倒的な絵の前に言葉は不要だ。当たり前のことだけど、当たり前のことを実感として教えてくれる作品と出会えるのは幸運だ。ぼくは幸運だ。

 圧倒的な絵を描いてしまってよかったのだろうか。こういうのを描く人の精神はおかしくなったりしないのだろうか。

 柴田ヨクサル先生は、どうやらいたって健康らしい。

 

記憶の中の深い海

 ぼくはある部分はとても成長していて、ある部分は非常に幼い。

 始めたばかりなのに上手くいくこともあれば、いつまで経ってもできないことがある。

 多くの人がそうであるように、ある時は優しく寛容で、慈悲深い。ある時は怒り、悲しみ、絶望する。

 基本的には、寝ていたい。この部分は多くの人とは違うかもしれない。

 得意、不得意がある。そして気分の浮き沈みがすこし激しい。

 こういうのは社会的に得意なことがはっきりしている人が書くものだと思っている。

 自分語りの価値、ここでいう価値とは、市場価値に近いのだけど、もしくは、人になんらかのメリットを与えるかどうかだけど、この文章にそういう意味での価値はあまりない。けれどぼくは今これを記録したくなった。そういうものだと思う。

 特技はある。その多くは意図的にしろそうでないにしろ長く続けてきたことだ。

 水をたくさん飲むことができる。自己催眠ができる。自己催眠に関しては八年のキャリアがある。一日にあまり食べずに活動できる。長いこと遠い道のりを飽きもせず歩くことができる。

 長く続けてきたのにできないことも多い。できることとできないことの数を比べたら絶対にできないことの方が多い。

 英語ができない。苦手科目だった。必然性がないままに文法だけをやったってできるようになるはずがない、と文句をずっと言ってきた気がする。英語自体はかなり好きだと思う。

 将棋は小学生からの趣味だけどそんなに強くはない。けど好きだ。

 料理は苦手だ。お菓子作りはうまい。掃除は頻繁にやらないけどやる時は満足いくまでやる。頻繁にやらないのでほとんどの時期部屋はごちゃごちゃしている。

 洗い物は好き。洗濯機は苦手。パソコンを触るのは好きだけど、メンテナンスは得意じゃない。

 予定を立てるのはほとんどできないけど、予定がなくても楽しむことができる。

 良いところもあれば悪いところもある。

 誰かにとって良いところがあれば誰かにとって殺したくなるくらいイヤなところもある。

 良いものを多く知っている。良い音楽、良い本、良い料理屋さん、良い場所。

 記憶をたくさん持っている。持っていたいと思う記憶がたくさんある。

 捨ててしまいたい記憶もあるが、そういう記憶はよく思い出す。捨ててしまいたいけど思い出す記憶がきっと本来は重要なものなのだろう。

 大切な記憶と重要な記憶は違う。

 こんなふうに色々飽きもせず考えていることができる。

 本当は人間は未来も過去も現在もほとんどのことを知っているのだと思う。

 子供がすべてを敏感に察知して、悲しい気配に泣いてしまうように、予期する力と推量する力、つまりそれは未来と過去を想う力を持っている。

 だから子供はすべてを知っている。大人もすべてを知っている。

 身体はすべての記憶を持っている。

 DNAの情報は転写され続け、アフリカで最初に立ち上がったサル、現生人類すべての母親の記憶、樹上生活の記憶、サルになる前の哺乳類になる前の魚類になる前のカンブリア紀の記憶、それらはぼくにもぼくの母親にもぼくの周りの子供たちにも受け継がれている。

 夢をよく見る。

 定期的に女の子と遊ぶ夢を見る。

 理想的な女の子が夢には登場する。

 理想的な女の子は、その娘の性格がどうとか、良いことをするとかそういうことじゃなく理想的な女の子で、ぼくはその娘に無条件に恋をしている。

 たとえその娘がぼくを殺したとしたって、それは必要なことだろうと思う。

 夢の中でぼくは女の子に導かれるがままに進んでいく。遊園地を案内したり、教育実習に行ったりする。気が進まなくても導かれていて、きっと現実でもそうだ。

 女性が好きだ。女の子に導かれたいと思っている。

 自己催眠が好きだというくらいだから、トリップするのが好きだ。

 薬物は好きじゃない。向精神薬を飲んだことがあるけどあの奇妙な静けさはどこか人間性の否認という感じがする。

 薬で救われるのであれば良い。たしかにそれは人を救っているのだから。

 薬に対して対抗心がある。

 自己催眠はある種自己治療だからだ。

 自己催眠をかけても変な世界を見るわけではない。LSDのように脈絡のない世界を旅するのではなく、自分の記憶の中にある穏やかな景色に入っていって安らぐだけだ。

 なのでそれは治療行為によく似ている。

 ぼくが文章を書くのも音楽を作るのも、結局は記憶の中の穏やかな景色に入っていくためにやってる気がする。

 シェルターか、あるいは避難所のような感じだ。このブログの記事の大多数は僕の避難所になってる。

 この間は、深海のような場所にいた。光が差し込むコバルト・ブルーの海の中で岩の上に身を横たえていた。

 深い緑の海藻が揺れて魚が銀色の身体を光にかざして、ギラギラと身をくねらせていた。

 真っ青なアクアマリンを覗いたらきっとその奥の方で見えるみたいな深海の景色で、ドナルド・フェイゲンの『サンケン・コンドズ』のジャケット写真によく似ている。というか先に頭の中にあったアートワークが再生されたのかもしれない。

 あるいは『シェイプ・オブ・ウォーター』のチラシみたいな情景だ。

 シューマンの歌曲に『美しい五月に』というのがある。

 すべての花が開く美しい五月に、私は彼女に恋をした。

 と、詩人が回想する歌だ。

 その曲の冒頭を聴くと『シェイプ・オブ・ウォーター』のチラシを思い出す。

 五月の地上と深海は大きく違う場所だけど、シューマンの音楽はどちらかというと深海の方に近い。

 ぼくの記憶の中の深海に呼応する音楽なのだろうと思う。シューマンの中でどのような景色があったのかは知らない。彼は精神を病んで晩年を過ごした。

 ぼくの記憶の中の深海は、あるいは遺伝子の記憶ともつながっているはずだ。

 ぼくは昔サルで、ネズミで、魚で、アメーバだった。

 長い間、光が差し込む海の中で緑の海藻たちとともに暮らしていたのだ。  

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