分けて、決めて、配置することーー永井 希 著『積読こそ完全な読書術である』を読んで。
永田希著『積読こそ完全な読書術である』を読んだ。
僕は一昨日、これを読みながら寝ずに本の配置をしなおした。
とても面白かった。簡単に言えば、現代社会の情報過多への抵抗の仕方について書かれた本だ。
現代人は、あらゆるメディアで作られ、過剰供給される情報に押し流されて、様々なコンテンツを脳内の「あとで見る」フォルダーの中に積んでいく。
見ようと思っている映画、聴こうと思ってる音楽、勉強しようと思った外国語。
人生を全て使ったってまるで足りない量のコンテンツが日夜生産され、蓄積され続けている。
著者はこのような、あらゆるメディアで情報が鑑賞されることなく氾濫し、蓄積され続けていく状況を「情報の濁流」と呼び、「情報の濁流」の中で未消化のものが積み上がっていく環境を「積読環境」と呼んでいる。
僕たちは自分の意思に反して、あるいは無意識的にコンテンツを積んでしまう。それは、社会そのものが巨大な「積読環境」を形成しているからだ。
著者は、情報の濁流の中を押し流されて無秩序に積読するのではなく、積読の後ろめたさに耐えつつ、自律的な積読環境=「ビオトープ的積読環境」を作れと僕らの背中を押してくれる。
ビオトープとは生き物が暮らす環境を意味する言葉で、知識の有機的なつながりのことを比喩的に言っているのだろう。
著者はピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』と、モーティマー・J・アドラーの『本を読む本』の読書論を紹介する中で、このように述べている。
バイヤールは、「鉄道交通の責任者」が「列車間の関係」に注意しなければならないように、「本と本との関係(つまり大きな文脈の中での本の位置づけ)」に注意を払うべきだ、と述べています。
(78ページ)
あなたがこれから何かの知識を得たい、あるいは何かの書物を楽しく読みたいと思ったときには、自分が何をテーマにするのかを決めることが重要です。
大事なのは、テーマをとにもかくにもひとまず「決める」ということです。(117ページ)
テーマを決めるのは適当でいいし、適当に決めたテーマを、さらに適当に変化させるのもいいのですが、「自分が今何をテーマにしているのか」を見失うことだけは避けなければなりません。(124ページ)
この二つの意見を取り入れた上で、著者は、とりあえずテーマを決めてしまい、そのテーマの中でそれぞれの本がどのように位置しているかを整理することで、自律的な一つの「ビオトープ的積読環境」を作ることができると述べている。
自分の「ビオトープ的積読環境」は、単なる知識の整理術にとどまらず、巨大な「積読環境」である現代社会の「情報の濁流」から身を守るシェルターとしても機能する。
「ビオトープ的積読環境」は「知識の生態系」でありダムやプールじゃないので、定期的に手を入れてやれば新陳代謝を繰り返し、生態系はさらに豊かになっていく。
ビオトープの維持には手間がかかる。干上がったり決壊してしまう恐れもある。
それでも「情報の濁流」にこれ以上ただ黙って飲み込まれているわけにもいかないのだ。
一昨日、僕の部屋には本が積み上がり始めていた。僕は小さな頃からずっと「情報の濁流」に飲み込まれ、もがいている。
最近はそのもがきも虚しく、濁流は胸のところまで押し寄せてきて、部屋は決壊寸前、自分は窒息しかかっていた。
だから、できるだけ早く、いつ決壊するかわからないとしても、それでもここに、この部屋に「ビオトープ的積読環境」を作らなくてはいけない。そうしないと部屋の方が決壊してしまう。
そのために、とりあえずテーマを決めて本を分類し、本棚の整理をやり直すことにしたのだ。
テーマに沿って本を分類して、本棚に配置していくことで僕の「ビオトープ的な積読環境」は可視化することができるようになる。
自分の知識を構造物として本棚の中に立体的に配置していくことーーそこにはレゴブロックのような快感があるように感じた。
あるいは、シルバニアファミリーのおうちの中でお人形遊びをしている時のような喜び。
分けて、決めて、配置することの快感。
芸術というのは、ある形や色や音の配置そのものを味わうことであり、何を意味するかではない。さらに言えば、何を意味するかという次元はあるのだが、単一の意味ではなく、諸要素が帯びる複数の意味の関係や配置が問題で、いわば意味の非意味的享受が問題。だから芸術の社会的有用性など論外。
— 千葉雅也『デッドライン』発売 (@masayachiba) 2020年5月24日
千葉雅也は、諸要素の関係性と配置こそが芸術の問題である、と言う。
大きな文脈の上でのそれぞれの本の関係性が大事だと主張するバイヤールの言葉を思い出した。
意味の非意味的享受。
小笠原鳥類の文章を読むと、言葉は、どういう関係性の中に配置されるかによって意味や感触を大きく変えるのだということがわかる。
村上龍は、複数ある情報を組み立てて小説を書いていると言っている。
この情報という概念が何なのかよく分からなかったし、今でもわからないのだけど、意味をそのまま受け取るなら、ここでもまた諸要素の配置が問題になってくる。
「『配置こそが美徳』なんて」
この歌詞は、芸術について語っているのか、それともシステムについて語っているのか。
システムと芸術は、どちらも配置を重要視する。
組み合わせて、別の存在を作ることの快感。元あった形を無理やり組み合わせ、全体像を変えてしまう改造の快感。
コネクトの快感。ディティールによりフレームが変化することの面白さを僕はずっと感じ続けている。
細部として分裂していくアメーバの集まりというモチーフは多分ここから来ている。
コネクトする快感とは一体なんなのだろう。
弁証法の根本には、コネクトの快感がある。
破壊、混ぜ合わせ、ぶつかり。
「人と会う時間は、自分と他人がぶつかる時間でもある」という話を友人とした。
外出自粛を要請されているため、最近は人と会う機会がないっていう話題の時だったと記憶している。
人と話していて楽しいのは、他者とぶつかる中で、お互いが構成要素にするすると分解されていき、相手の意見や、空間のようなその場の何かと組みあわさって混ぜ合わされて別の何かになる、変身していく、改造されていくことの快感なのかなと思った。
何かとぶつかることは自分を改造し、相手をも改造していこうとする試みなのかもしれない。
その試みは必ず失敗に終わる。
自分の思いどおりに行かなくて怒ったり悲しんだりする人間の精神は、僕の中にもあるけど、相手を改造しようとして失敗することの虚しさから来るのかもしれない。
相手の改造なんて絶対に叶わない願いだ。だから、力と力の戦いは虚しい。自分の力に、相手の改造を期待したら、殺すしか無くなってしまう。
コネクトの快感とは、自分が崩れる快感だ。相手を崩す快感ではない。たぶん。お互いに崩れあい、ズブズブになって変身していく過程の中に快感がある。その様はアメーバに似ている。
煩悩のひと
「空(ソラ)とはなんでしょう?」
という問いかけに見えた。お昼の眠りから覚めた僕の目に入ってきたスマートフォンのホームページのタイトル。
ほんとうは「空(クウ)とはなんでしょう?」というページだった。空(クウ)とは仏教の用語のことだ。
クウソクゼシキとか、ゴウンカイクウとかのクウ。
読んでいた本の中に仏教の言葉が出てきたから寝る前の僕は調べていたんだと思う。
でも起きてからの僕はクウではなくソラの方が頭の記憶の上澄みに上がってきていたから、ソラと読んだ。
だって、ソラとはなんでしょう?の方がロマンチックな問いかけだから。
僕は生まれてからソラとは何か考えたことがなかったなあと気づいた。
クウが何かを考えたことはあった。はっきりと分からなかったから。
空即是色、五蘊皆空、とかいう言葉を聞いたことがあると思う。
空とはつまり色(シキ)であり、また色を含めた人間の認識はまた空である。
というような意味らしい。
聞いたことある人もない人も、ここで聞いてしまった以上「空(クウ)って結局どういう意味なの???!?!!!」という疑問が浮かんでしまうだろう。
空とは何かを聞こうと思ってたら、色とか五蘊とかまた新たな概念が登場するのだから。
分からないものを分からないもので説明されても分からない。ファルシのルシがコクーンでパージみたいな感じだ。仏教はだいたいこの論法な気がする。つまり言葉で理解できるものじゃないってことだろうと思う。ずるいよねそういうの。
いや、仏の心を理解したいと思う心もまた煩悩なのです。。。。
煩悩なのでしょうか?ぼくにはわからないことだらけだ。
そのくらいクウというのは難解だから、クウとは何かを疑問に思うことは自然だ。
でも、ソラが何であるかを疑問に思ったことはなかった。ソラは自明で、目に見えて存在しているからだ。
ソラはどうして青いのか、とかソラを飛ぶためにはどうしたらいいのか、とかソラにまつわる疑問はいくらでも出てくるけど、じゃあそのソラっていったい何?という疑問は、考えてみると今まで感じたことがない。
だから、ロマンチックだなあと思った。
かわいい女の子とそういう話をしたい。
「ねえ、ソラっていったいなんだと思う?」みたいな。
「青いもの。」とか「気持ちいいところ」とか「宇宙のこと?」みたいな感じで返答が返ってきて、ああでもないと話すことが理想だ。
というかむしろ女の子の方に問われたい。
「ソラってなんだと思う?」
もうその瞬間にキュンとくるだろう。3秒後には、恋に落ちる。
そういう機会はなかなか無いだろうけど、考えるのが大事だ。妄想はぼくを幸せにする。何故だか。言葉の上での妄想こそ今目の前に存在しない、クウの最たるものだと思うのだけれど、幸せになる。(五蘊皆空とは、色受想行識という人間を成り立たせる五つの要素すべてが空であるという意味。妄想はこの中の想にあたる。先ほどの妄想もまたクウです。)
煩悩の塊だ。ぼくは。108回の鐘では多分足りない。
まあそれでもいい。新たな疑問を感じるのが好きで、女の子が好きだ。好きなことをやるのが一番いい。いやなイメージは考えないでいると本当に健康になるのだという。
ソラとはなんだろう?
なんだか分からない。
オゾン層にレックウザが住んでいて、デオキシスが隕石とともにやってくるのだ。
小さいときはけっこう真面目に信じていた、ぼくの大好きなイメージです。
柴田ヨクサル『エアマスター』 第三巻 178ページ 一コマ目を見て眠れないはなし
「あれは一目ボレの超強力版だったな......」
「0.1秒ごとに好きになっていくカンジでさ...」
「3秒後には
この世のこの時代に生まれてきてよかと思った...」
「この娘(コ)に会えたんだからなって」
(出典元:柴田ヨクサル『エアマスター』二巻 第14話 ジェッツコミック)
ビルの上から落ちていくマキのバックに東京の名前のない夜景が広がっている。
雑居ビル街の裏路地で、ビルの屋上で戦闘する。舞踊のように。
こんな感じの絵だ。たしかに絵だ。
柴田ヨクサルさんの『エアマスター』の三巻、第24話、178ページの出来事。
どうしてこんな絵を描けたのだろうか。
言葉では言えない。鮮烈とか、キレイとか、形容はできるけど、形容することではこの絵にも、この絵が喚起する何かにも決してたどり着けない
見ないと意味がない絵だ。一コマ。六コマあるページの一番上にある横に長い長方形の一コマ。
いま、マンガワンというアプリでエアマスターが読めるので、読んだことがない人は是非読んでみてほしい。読んだことがある人も読もう。
初回ダウンロード者にはたぶん100話分くらいのチケット?ライフ?なんらかの読む権利が与えられる筈なので、だいぶ長いこと読める。
ぼくも今少しずつ読んでいる。そしてマンガワンで言えば第24話の八ページ目から先に進めていない。
一コマ目から進めていない。
進めない。感情が何か出てきてしまってどうしようもないから。だから、こんな風に無意味な描写をしてしまった。
圧倒的な絵の前に言葉は不要だ。当たり前のことだけど、当たり前のことを実感として教えてくれる作品と出会えるのは幸運だ。ぼくは幸運だ。
圧倒的な絵を描いてしまってよかったのだろうか。こういうのを描く人の精神はおかしくなったりしないのだろうか。
柴田ヨクサル先生は、どうやらいたって健康らしい。
記憶の中の深い海
ぼくはある部分はとても成長していて、ある部分は非常に幼い。
始めたばかりなのに上手くいくこともあれば、いつまで経ってもできないことがある。
多くの人がそうであるように、ある時は優しく寛容で、慈悲深い。ある時は怒り、悲しみ、絶望する。
基本的には、寝ていたい。この部分は多くの人とは違うかもしれない。
得意、不得意がある。そして気分の浮き沈みがすこし激しい。
こういうのは社会的に得意なことがはっきりしている人が書くものだと思っている。
自分語りの価値、ここでいう価値とは、市場価値に近いのだけど、もしくは、人になんらかのメリットを与えるかどうかだけど、この文章にそういう意味での価値はあまりない。けれどぼくは今これを記録したくなった。そういうものだと思う。
特技はある。その多くは意図的にしろそうでないにしろ長く続けてきたことだ。
水をたくさん飲むことができる。自己催眠ができる。自己催眠に関しては八年のキャリアがある。一日にあまり食べずに活動できる。長いこと遠い道のりを飽きもせず歩くことができる。
長く続けてきたのにできないことも多い。できることとできないことの数を比べたら絶対にできないことの方が多い。
英語ができない。苦手科目だった。必然性がないままに文法だけをやったってできるようになるはずがない、と文句をずっと言ってきた気がする。英語自体はかなり好きだと思う。
将棋は小学生からの趣味だけどそんなに強くはない。けど好きだ。
料理は苦手だ。お菓子作りはうまい。掃除は頻繁にやらないけどやる時は満足いくまでやる。頻繁にやらないのでほとんどの時期部屋はごちゃごちゃしている。
洗い物は好き。洗濯機は苦手。パソコンを触るのは好きだけど、メンテナンスは得意じゃない。
予定を立てるのはほとんどできないけど、予定がなくても楽しむことができる。
良いところもあれば悪いところもある。
誰かにとって良いところがあれば誰かにとって殺したくなるくらいイヤなところもある。
良いものを多く知っている。良い音楽、良い本、良い料理屋さん、良い場所。
記憶をたくさん持っている。持っていたいと思う記憶がたくさんある。
捨ててしまいたい記憶もあるが、そういう記憶はよく思い出す。捨ててしまいたいけど思い出す記憶がきっと本来は重要なものなのだろう。
大切な記憶と重要な記憶は違う。
こんなふうに色々飽きもせず考えていることができる。
本当は人間は未来も過去も現在もほとんどのことを知っているのだと思う。
子供がすべてを敏感に察知して、悲しい気配に泣いてしまうように、予期する力と推量する力、つまりそれは未来と過去を想う力を持っている。
だから子供はすべてを知っている。大人もすべてを知っている。
身体はすべての記憶を持っている。
DNAの情報は転写され続け、アフリカで最初に立ち上がったサル、現生人類すべての母親の記憶、樹上生活の記憶、サルになる前の哺乳類になる前の魚類になる前のカンブリア紀の記憶、それらはぼくにもぼくの母親にもぼくの周りの子供たちにも受け継がれている。
夢をよく見る。
定期的に女の子と遊ぶ夢を見る。
理想的な女の子が夢には登場する。
理想的な女の子は、その娘の性格がどうとか、良いことをするとかそういうことじゃなく理想的な女の子で、ぼくはその娘に無条件に恋をしている。
たとえその娘がぼくを殺したとしたって、それは必要なことだろうと思う。
夢の中でぼくは女の子に導かれるがままに進んでいく。遊園地を案内したり、教育実習に行ったりする。気が進まなくても導かれていて、きっと現実でもそうだ。
女性が好きだ。女の子に導かれたいと思っている。
自己催眠が好きだというくらいだから、トリップするのが好きだ。
薬物は好きじゃない。向精神薬を飲んだことがあるけどあの奇妙な静けさはどこか人間性の否認という感じがする。
薬で救われるのであれば良い。たしかにそれは人を救っているのだから。
薬に対して対抗心がある。
自己催眠はある種自己治療だからだ。
自己催眠をかけても変な世界を見るわけではない。LSDのように脈絡のない世界を旅するのではなく、自分の記憶の中にある穏やかな景色に入っていって安らぐだけだ。
なのでそれは治療行為によく似ている。
ぼくが文章を書くのも音楽を作るのも、結局は記憶の中の穏やかな景色に入っていくためにやってる気がする。
シェルターか、あるいは避難所のような感じだ。このブログの記事の大多数は僕の避難所になってる。
この間は、深海のような場所にいた。光が差し込むコバルト・ブルーの海の中で岩の上に身を横たえていた。
深い緑の海藻が揺れて魚が銀色の身体を光にかざして、ギラギラと身をくねらせていた。
真っ青なアクアマリンを覗いたらきっとその奥の方で見えるみたいな深海の景色で、ドナルド・フェイゲンの『サンケン・コンドズ』のジャケット写真によく似ている。というか先に頭の中にあったアートワークが再生されたのかもしれない。
あるいは『シェイプ・オブ・ウォーター』のチラシみたいな情景だ。
すべての花が開く美しい五月に、私は彼女に恋をした。
と、詩人が回想する歌だ。
その曲の冒頭を聴くと『シェイプ・オブ・ウォーター』のチラシを思い出す。
五月の地上と深海は大きく違う場所だけど、シューマンの音楽はどちらかというと深海の方に近い。
ぼくの記憶の中の深海に呼応する音楽なのだろうと思う。シューマンの中でどのような景色があったのかは知らない。彼は精神を病んで晩年を過ごした。
ぼくの記憶の中の深海は、あるいは遺伝子の記憶ともつながっているはずだ。
ぼくは昔サルで、ネズミで、魚で、アメーバだった。
長い間、光が差し込む海の中で緑の海藻たちとともに暮らしていたのだ。
最高の”洋楽ロック”とごく個人的な思い出
はじめに
ぼくの音楽との出会いはおそらく洋楽からだと思う。
父親は洋楽が好きな人間だった。
歌詞の意味がわかったことはほとんど無い。
ぼくが意味よりテンションや音を重視するのはこれが音楽の原風景としてあるからかもしれない。
このテキストは
①URL
②曲名
③演奏者/バンド名
と言う順番に無機質に文字がならんだリストの形で進んでいきます。
たまに、思うことがある曲には何かを書いてます。
まとまった秩序はつけませんでした。
もし良ければ、適当にスクロールしてクリックしてみたりしてください。
そうしているうちに、もし、あなたにとって大切な音楽が見つかったら、それに勝る喜びはありません。
さいこうの曲たち
https://youtu.be/l8WMGBuNaus
"Magical Mystery Tour"
おそらく、生まれて初めて聞いた音楽。
あのとき、22年前、1998年の東京郊外。走るビッグホーンの中でぼくはこれを聞いた。
"Green Garden"
Laura Mvula
毎日のように聞いていたJ-waveのラジオで毎日のように流れていた。
忘れられない曲。
何かの幸福を受け取っていた。
"sing swan song"
Can
最近聴いた曲。揺らめく感じが何故か何故か心地よい。
https://youtu.be/SECVGN4Bsgg
"Who can be mit"
Men At Work
生きてて初めてカッコいいと自覚した曲。いま、俺はカッコいいと思っている、とそう自覚した瞬間があった。
信長の野望をやっていた時だった。夏休みだったか日曜日だったか、とにかく休みの日だった。
https://youtu.be/KyQppQPCgMY
"Heart of mine"
Bibby Caldwell
忘れようにも忘れられない、R &Bの原風景になっているような曲。
https://youtu.be/CcGQhm9vJw0
"Believe it or not"
Joey Scarbury
https://youtu.be/Ll6LLGePYwM
"Part time lover"
Stievie Wonder
スティービー・ワンダーの豊かで愉快な曲。
豊かだなと思った。軽快だなと思った。
"Green, Green, Rocky Road"
dave van ronk
ブルースだと思った。ブルースはブルースとしてブルースだと思った。
この曲を聴いて思った。
https://youtu.be/Yc40EasXz18
"Almost Paradise"
Mike&Reno & Ann Wilson
父親のipodに入ってた。
洋楽好きの同級生と古い洋楽の話はできなかった。
彼はボブ・ディランが好きだったけどぼくがボブ・ディランを聴くようになるのは高校三年生くらいの時だからそのときはまだ知らない。
https://youtu.be/g5eXSPKHlso
"Heroin"
Lou Lied
世界で一番好きな曲、大事な曲それは何かと言われたら、日によってはこの曲と答えるかもしれない。
https://youtu.be/Daqp_wGdwhU
"Like A Roling Stone"
https://youtu.be/gxEPV4kolz0
"Piano Man"
カラオケで歌う。
ビリー・ジョエルは行く先々の大人の男たちが好きだった。
みんなどこか繊細だったんだと思う。
https://youtu.be/AYUdldNzLNA
"Kiss On My List"
Hall&oates
https://youtu.be/vsl3gBVO2k4
"Bohemian Rhapsody"
言うまでもなく素晴らしい曲。
なのだけれど、この曲名を自覚したのは最近だった。
高校生くらいの時だと思う。
これを初めて聴いたのはおそらくひどく、とても幼い時で、それもおそらくビッグホーンの中で聴いたのだ。
https://youtu.be/WOuI4OqJfQc
"Just the two of us"
Grover Washinton jr
"Have You Ever Been(To Electric Lady Land)"
https://youtu.be/XUjAC6hqeHI
"Atoll"
Nail Palm
信じられないくらい好き。信じられないくらいギターがうまい。
けどこの曲は、技術の問題ではない。
何が良いのか、何故良いのかわからない。全てと言ってしまえば無責任だけど。
しかし何故か良い。あまりにも良い。
https://youtu.be/BDpdaUG5vjE
"Full Session"
Nai Palm
ドレスコーズや、岡村靖幸のライブに並ぶくらい、クイーンのライブに並ぶくらい、いや、これらはそれぞれ絶対的なものであり、つまり絶対的なアーティストとして素晴らしいライブ。奇跡のような映像。
"Hard To Say I'm Sorry"
Chicago
https://youtu.be/_Son_p6sPeI
"Que sera sera"
"22(OVER S∞∞N)"
Bon Iver
高校三年生の卒業を前にした冬のある日、一月の音楽室で友人たちに、この曲がすごいんだって興奮気味に話した記憶がある。
衝撃だった。朝、学校へ向かう一時間半の電車の中で聴いたこのアルバムが、一瞬で、自分にとって大事だって分かった。
自分にとって大事なものはたぶん一瞬で出会って一瞬でわかる。
この年のグラミー賞はデヴィッド・ボウイが取った。このアルバムもノミネートされていた。その年にデヴィッド・ボウイは死んだ。
"Summer Colour"
"The girl I Hav'nt Met"
Kudasaibeats
ローファイヒップホップを初めて聴いたときの好きな曲。
ローファイな音声は好きで、この間書いたダニエル・ジョンストンもそういう音作りだけど、音楽は全然違う。
"Iambic 9 Poetry"
Squearepusher
エレクトロニックというのか。衝撃的な作品。
海辺の公園で聴いていた。夏にも合うし冬にも合う。
https://youtu.be/K3SezDMPpVM
"Heartbeat"
なぜかぐるぐる回る椅子で回転してる人のPVが印象的なこの作品はなんとなくディズニーランドに行くまでの道路を思い出させる。
ヤシの木がならんだ海岸沿いの道。
ここはどこだろうと思った。幼い時に行ったリゾートの記憶が浦安で思い出されたのだ。
https://youtu.be/zxNHJXpH9QM
"Bus in these streets"
Thundercat
地獄みたいなジャケットで夢みたいな音楽。
https://youtu.be/ppnrNTLYzl0
"Indian Summer"
Rasmus Faber feat. Frinda Sundemo
"Time To Pretend"
母を盗まれるという文章を昔、書いた。
そこに書いた少年と交わした数少ない会話の中に「MGMTは好きかい?」というのがある。
彼の返答は「そうでもない」だった。
https://youtu.be/FyYMzEplnfU
"Only Shallow"
"The end"
『オメガトライブ』という漫画で出てくる。
あの漫画は死にそうになるくらい良い漫画で、後に村上龍の『愛と幻想のファシズム』を読んだら同じような描写、同じようなストーリーが並んでいて、自分の好きなものも傾向がこうわかりやすく見えるのも面白い。
"Surf's Up"
https://youtu.be/4Zbnvh6I4k4
"Monkey Man"
The Roling Stones
ストーンズで一番好きな曲。
歌詞が一番好きなのは『悪魔を憐む歌』。
毛皮のマリーズのよく似たタイトルの(というかオマージュの)曲が好きだ。
"Peg"
"Slinky Thing"
"Return To"
#1Dads
https://youtu.be/isIABK-0ohQ
"The Wilhelm Scream"
James Blake
叫びは不協和で心に直接響くものだ。
ウィルヘルムというのは軍人の名前っぽい。
鉄兜とかそういうのが語源だった気がする。
軍人の叫びなのか。
ロックじゃない。これはジャズだ。
ビル・エヴァンスといえばワルツ・フォー・デビーなのだと思う。
けれどぼくはやっぱり、アリスが好きで、これはディズニーが影響しているのかもしれない。
始まりのDm7→G→CM7の進行が信じられない緩やかだ。
音楽が始まる瞬間の静けさは、何ものにも替えがたい。
"O trem azul"
Lo Borges
ポルトガルロック。
タイトルの訳は『青写真』らしい。
青い写真という意味なのか、それとも計画を立てるという意味で青写真という名前なのか、微妙だ。
(青写真とは19世紀に使われていた写真の印刷技術のことで、青く現像される写真のことを言うみたいです。
みたことあると思う。ググってみて。綺麗です。
普通に現像するより安かったので図面をコピーするために使われていて、そこから転じて設計図とか、計画を練ることに意味が変わっていったらしい。
この曲で言う「青写真」は、その青い写真そのものだと思う。)
ロー・ボルジェスという人はポルトガルの英雄的に人気なシンガーらしい。
全然知らなかった。何故知ったのかも覚えていない。
どちらにせよ大事な歌手で、大事な曲だ。
https://youtu.be/M5gjHFmi2Co
"John Wayne"
Cigarettes After Sex
"Goodbye to the circus"
Aqua
中学の卒業式の日に聞いた。
ぼくは中学生の時、なぜかわからないけどしあわせだった。理由もなく。
その幸せはたぶんサーカスだったんだと思う。
あの日にサーカスは終わって幸せも終わるんだって知ってた気がする。
だからこの曲は僕にとってすごいノスタルジーなんだけど、懐かしさと幸せはやっぱり今の僕にとっても大事なもので、つまりとても大事な曲です。
【暇つぶしまとめの記事】
最高の”邦楽ロック”(ぼくが知るかぎり)
はじめに
今まで聴いた中で最高の音楽を挙げてみました。
ここに集めた曲たちは全てぼくの人生において大切な曲です。
兄が部屋でかけていた曲、父に貰ったipodに入っていた曲、友達に勧められた曲、本で読んで聞いてみた曲、そんなふうに音楽と出会ってきました。
このテキストは
①URL
②曲名
③演奏者/バンド名
と言う順番に無機質に文字がならんだリストの形で進んでいきます。
たまに、思うことがある曲には何かを書いてます。
まとまった秩序はつけませんでした。
適当にスクロールしてクリックしてみたり、気にいる名前を探してみたり、自由に使ってみてください。
そうしているうちに、もし、あなたにとって大切な音楽が見つかったら、それに勝る喜びはありません。
最高の曲たち
"透明人間"
六つ上の兄が部屋の中でよくかけていた曲。
小学三年生くらいの時、学童クラブで『20世紀少年』を読んだ。
そのときずっと頭の中に鳴ってた。
"Loveずっきゅん"
これも兄がよくかけていた。
兄はバンドのドラムをやっていた。
"nano"
ぼくは一応作曲したりする。
一番影響を受けている、というかパクリ元はこの人たちで、ほとんど同じような曲調を無意識に目指してしまうみたいだ。
そのくらいどこか好きで、そして分かちがたい。
https://youtu.be/ddJNUENJsAM
"都会のアリス"
"光と影"
タワーの原風景が頭の中にある。
頭のタワーはきっと河川敷を歩いていた記憶とこの曲のMVのタワーがかぶって出来上がっている。
こち亀のおばけ煙突の話も、特別好きではないけどふと思い出してしまうタワーの一つだ。
"愛に気をつけてね"
今まで見たすべての映像の中で一番奇跡的な映像かもしれない。
"Don't Trust Ryohei Shima"
上記のライブ全部の映像です。
犯罪的。これ公開していいのかな。
とにかくすごいライブだなあ。
ありがとうございます。
"悲しいズボン"
たま
ほとんど即興的にこれを演奏していることが信じられない。
技術がある。技術があるように見せていないけどとてつもなく技術があって、その先に、もしくはその前に、もしくはその根底に何かがある。
潜んでいる。
"ベンガルトラとウイスキー/everything is my guitar"
散歩の途中でyoutubeを見たら関連動画で出てきて、クリックした記憶が残ってる。
https://youtu.be/TELGHn9WaOg
"Water front"
向井秀徳アコースティック&エレクトリック
"サーカスナイト"
"サーカスナイト"
青葉市子
サーカスナイトって曲を初めて知ったのはこの映像だった。
サーカスナイトという名前も、青葉市子という名前も、七尾旅人という名前も知っていたけど、この映像でそれがぶつかって良かったなあと思ってる。
こんなふうに記憶とか情報が交差する中心に音楽や映像があることが多くて、そういう音楽や映像は忘れない。忘れられない。
"月の丘"
青葉市子
最近この曲のギターを練習している。
"青恋イーゼル"
銀河スープ
中学生の時聴いていた。
聴くと心がドキドキした。
あのときはなぜか理由もなく幸福だった。
"チアチアゴー"
the rooms
「狂った青い樹の群れ
ここにいたいけれど
東急大井町線八時
さよならひかる未来」
なんかわからないけど、ロックンロール!って感じの女性ボーカル。
エレキギターをピックでギュイーンってやるシーンがあって、そこがかれこれ七年くらいお気に入りです。
https://youtu.be/UybhrTTYlXg
"タクラマカン砂漠"
モルグモルマルモ
PVの謎ダンスが好き。
"WEEKEND MAGIC NUMBERS"
https://youtu.be/galpVZNupRk
"愛の花"
タラチネ
懐かしい。この曲は僕の幸せのある部分をたしかに担っていた。
いまでも担っているのだろうと思う。
"I WAS IN LOVE"
FPM feat.細美武士
川を越えた向こうのバスの車両基地のような、青い壁に囲まれた広い建物群に面した道路を夏の熱い日にじりじり焼かれながらずっと歩いてた時に聴いて曲です。
"今更"
中学のなんかの行事で、遅れて体育館に入ってきた友達とこの曲について話しました。
"Avalon"
OTOTOI GROUP
誰か全然知らないけどすごい好き。
"魔法のように"
FAB
https://youtu.be/dUdfCCeloKU
"よろこびの吟"
plenty
"アイボリー"
"夢の中で"
https://youtu.be/FgIEGHTGTlg
"プラスティックガール"
青春という言葉を使うのは恥ずかしいけど青春という言葉が、ぼくの中で一番似合う曲。
"ビューティフル"
泣いてしまうほど思い出深い。
"僕の果実"
"春の feat.大坪加奈"
古川本舗
"縦書きの雨 feat.中納良恵"
"くちなしの丘"
"ハナレバナレ"
ぼくの中でハナレバナレはこのアレンジで頭に記録されてる。
"ナイトクルージング"
https://youtu.be/W6BFtZHURXM
"ずっと前"
https://youtu.be/w05Q_aZKkFw
"エイリアンズ"
"天空橋に"
友人が言っていたので聞いた。とても良い。
音楽って音がなっているわけだから静かじゃないんだけど音が鳴っている方が静かに感じられる曲があって、この曲は始まる前からそういう終わる時まで静けさに包まれてる。
"時間を名乗る天使"
これも友人が言っていたので聞いた曲。
夜に聞いた。夜にあってる。夜にあってる曲は好きだと思った。
"パークサイドは夢の中"
"今日を生きよう"
サニーデイ・サービスの中で一番好き。
「天使じゃないって?そりゃそうさ」って歌詞に、なぜか救われた。
何から救われたのかはわからない。
"あの娘ぼくがロングシュートきめたらどんな顔するだろう"
ギターを弾く岡村ちゃんの顔が好きすぎる。
"葬儀屋の娘"
工藤裕次郎
"北極大陸"
AL
"若者のすべて"
"ロビンソン"
"ブルーサマー"
Mechanelo
バンドマジックという言葉をこの曲の最後のアンサンブルで身体で理解した。
"夏なんです"
こんな映像があったなんて知らなかった。
夏なんですって曲なのに、冬に聞いてた思い出がある。
"セシウムと少女"
"Selfish"
"クロノスタシス"
きのこ帝国
"まともがわからない"
ラジオを聞いて登校していた中学校時代、ある時期に毎日のように流れていて、まともがわからないなあって思った。
"空洞です"
「想像上の神の庭で、誰もうまく遊べないよ」っていう歌詞が好きだった。今も好き。
https://youtu.be/6BDW1V_P5sA
"ハイブリッドレインボウ"
https://youtu.be/TCO-mXa0SBs
"夜の東側"
友達がカラオケで歌ったこの曲が、初めて聞いたサカナクションだった。
"ダニー・ゴー"
THEE MICHELLE GUN ELEFANT
誰よりも何よりも好きな曲。
"透明少女"
口上がかっこいいよね。
"脳"
トモフスキーは天才です。
天才とはこんなに自然体なものなのかと驚いてしまいます。
"高層ビルと人工衛星"
teto
https://youtu.be/HpWCEIfvqzk
"ネトカノ"
Sugar's Campaign
https://youtu.be/deWXsZrZwiM
"蛹"
suzumoku
"バックシート・フェアウェル"
集団行動
"冬来たりなば"
冬のアルバムだったので、ぼくはこれをお正月付近に聞くようにしている気がする。
"けむをまこう"
本日休演
"夜の太陽"
ギリシャラブ
"ローカル線"
"Time machine"
D.A.N
"シカゴ・バウンド"
"じゃっ夏なんで"
夏が好きかどうかはわからないけど、この曲の初めになっているセミの声はとても好き。
https://soundcloud.com/kyohei-sakaguchi-1/djojdny7qphv
"つばめ"
坂口アオ/坂口恭平
建築家、作家、陶芸家?なんかいろいろやってる坂口恭平という人の曲。
歌っているのは娘のアオさんという方らしい。
ノスタルジーな情景が浮かぶ。幸せな午後夕間暮れって感じの曲。
身体に重なるすべての時間と、タネを撒く人
終わった幸福もいつだって思い出せるし、いつだってまた感じることができる。幼年期の幸福な時間を、思春期の何故かわからない全能感を。ぼくらの身体か脳か筋肉か魂が覚えていて、いつだってまた感じることができる。
それは終わった幸福だけど終わった幸福じゃない。過ぎた時間だけど過ぎ去ったわけではない。
過ぎた記憶と感じるのは、記憶をノスタルジーの中で美化したい気持ちが働くからだろう。手に入らないものには大きな価値を感じてしまうから、過去はいつでも一番美しい。しかしいま蘇った過去はもう過去ではなく、いまそれを想う自分が存在しているのだから、その想いをノスタルジーとして美化するんじゃなく、いま浮かび上がった感情として受け入れてしまえば、その幸福感はいまの自分のものになるんじゃないか。
そうして幸福をいまの自分に引き入れ続ければ、ドラッグなんかいらないくらい、いつでも気持ち良くなれる。
ドラッグを必要とするのは、時間感覚が時計によって狂ってしまったからかもしれない。
身体はすべての過去を記憶していて、すべての未来を予期している。記憶と予期の間でいまがあるのだから、いまにはすべての時間が、少なくともこの身体にまつわるすべての時間が圧縮されて、その出力された形が、端的な生命としての自分だ。
ただ生きているというのはすべての未来と過去の重なりの中にいるということだから、生物はただ生きているだけで凄まじい情報量を持っていて、ただ生きているというのはそれだけで絶対的な善だ。
坂口恭平は言う。サルは樹上の生活で鳥の視点を獲得した。サルは鳥の歌を聴いて憧れていたから、音楽ができた。鳥の視点、空から見る視点を持ち、死んだら土に帰るから土地の記憶も持っている。
南方熊楠の本を買った。中沢新一が編集しているやつ。古本で文庫で100円だった。まだ読んでいない。
NHKの『そのとき歴史が動いた』でやっていた南方熊楠特集を見た。
お金とポジションのために熊野の木を伐採しようとする行政に対する抵抗について解説していて、その時だれかが「熊楠」と言う名前がまさに熊野のクスノキだから、彼は熊野古道の木々が切られるというのは自分が切られるような思いがしたんじゃないかと言っていて、人間は木にもなれるのだと思いずいぶんと感心した。
人間の共感能力は植物にまで及んでいる。僕らは植物と言葉で繋がれないからコミュニケーションが取れないような気がしているけど、熊楠と熊野の木の間では何かコミュニケーションがあったはずで、言葉というのは便利だけど他の表現形態を持たないと不自由だと思った。
植物と僕らのコミュニケーションで言えば農家はまさにそうで、彼らは植物の生命を助けて、植物から生命の助けを得ている。
人間と植物という種族間の共生関係をここまでハイレベルでできているのに、人間同士だと何故かうまくいかないのは、言葉に頼り過ぎているからではないのかと言ってみると、急に65歳男性の投書みたいなことを言い出したなあって自分で思う。
植物に対して人間は相手が望むことが何かを察して、研究機関まで作って頑張って好みを調べて、植物が望むように気温を整えたり日光を使ったり世話をしてあげたりする。
すべては収穫のためなんだけど、そのリターンは不安定ですぐ貰えるわけでもない。世話をしている瞬間はコストを払っているだけの状態だ。いまのドイツなんかはそんな感じがする。ヨーロッパ全体を支援することはいまの段階ではコストでしかない。けれどそれに対する返礼は確実にある。それをきっとメルケルさんはわかっているから、あれだけ身を切る支援をしているのだろうと思った。不安定でいつ貰えるかわからないリターンではあるけど、その返礼はある。
なんだか収穫というのは返礼という感じがする。ギブに対する返礼。
ビジネスの世界でも政治の世界でもタネを撒く、という比喩はあるけど収穫するって比喩は聞いたことがない。
収穫って能動的な言葉だけど、収穫のタイミングは能動的にコントロールすることは不可能で、気温とか日照時間とかが重なって勝手なタイミングで植物が実をつけて、それに従って起こることだから、収穫するという比喩は使いづらいのかもしれない。人間たちは能動的にタネを撒き、あとは過去の記憶を駆使して収穫のタイミングをを予期するだけだ。
だから収穫とは不思議な動作だと思う。
タネを撒けば作物は実るかもしれないし実らないかもしれない。植物について知っている人なら誰だってわかる。収穫のタイミングはいつ来るかわからないし、タイミングを逃したら返礼は受け取れない。
それでも農家はタネを撒く。過去と未来を頼りにしてどこかに希望を託しながら。
いまメルケルさんはタネを撒いている。
僕が言いたのは植物と人間の関係が人間同士の関係の先を行っているということだ。そして人間関係はようやく植物との関係に追いつこうとしている。
少なくとも、植物との関係を始めるにはタネを撒くしかない。能動的に動けるのは、タネを撒くか撒かないか、そして収穫するかしないかという部分だけだ。
ぼくはとにかくタネを撒こうと思う。結果的にどこかで返礼が来るから。いつになるかはわからないけど。そしてタネを撒くという比喩が具体的にどういうアクションを意味するのかはわからないけど。坂口恭平はパンティの返礼って言ってた。それはとても、個人的には、夢のある話だ。