ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

リスの動画とか見ると突然食べるのやめるからビビるよね

 保坂和志の文章にはマインドフルネスと同じ効果がある。彼の明確だけどまっすぐ行ったり曲がったり来た道を戻ったりするような思考の跡をそのとおりたどっているとなにも考えてない自分に気づく。なにも考えてないというのは悪いことではなく、悪いことのように言われるがそれは人間が何かを考えてないと不安になるからであってなにも考えないで生きていけるならそれに越したことはない。

 そもそも考えるというのがなにを考えているのだろうか。ぼくの頭のなかはいま明日の予定が嫌だとかこんなことがムカつくとかなにが食べたいとかそんなことをわざわざ言葉にしているだけで、それが考えるということならおそらく犬や猫の方がシンプルだ。彼らはたぶん路地裏を歩いていて室外機に登りたいと思ったら登るし、餌が目の前にあって食べたいと思ったら食べるが食べたくないと思った瞬間にやめる。猫の動画やリスの動画を見ていると普段の生活から食事までの間があまりにもなめらかで驚くことがある。

 リスの餌を手に持って顔に近づける。リスは餌が食べたいからにおいがした瞬間に手を出して催促するのだけど人間の指はまだ餌を掴んでいるからリスの腕は高速で空を切り続ける。空を切る腕の間に餌を近づけるとリスは餌をひったくってカリカリと齧りだす。カリカリとかじったら次に咀嚼する。飲み込むとまたカリカリやって、咀嚼する。しばらくそれを繰り返すのを見てぼくら人間は安心したりなんだか暖かい気持ちになるのだが、リスは自分が満足すると餌を放り出してどこかにサッと消えてしまう。その姿を見てぼくらは唖然とする。

 リスにとってはそれが自然なのだ。リスの思考とか脳のなかでは食事と生活が分けられていないのだろう。人間は食事を特殊なものだと思っているから食前と食後に言葉を発したりテレビをつけたり準備をしたりして何と無く食事のムードを作りあげてから食べるし、食べ終わっても食事のムードはリビングの空中にぼんやりと漂っていて、そのなかでぼんやりとテレビを見たりフルーツを切ってみたりするのだが、リスにそんな切り替えはない。食べると考えた時には食べているし、どこかへ行くと思った時には行っているのだ。即断即決で行動まで行う。そこに言葉が入り込む余地はないし、思考と行動のタイムラグもない。人間の感覚だとこのタイムラグのことを考えると呼ぶのだけどそういう意味では動物は考えてないけど、動物は動物なりに考えを働かせていて、それが行動に直結しているでも人間は人間で考えて行動する。

 つながることが良しとされている時代に、自閉症は生きづらい。

 自分の好きなことを発信して、それを追い求める様を応援してもらう、それが昨今のエンターテイナーのやり方なんだろう。シェア。つながり。しかしそれはとてもつらい。

 ぼくは極端な考え方をするから、お客さんとコミュニケーションを取りながらコンテンツを作り、自己像を作っていく営みを媚びだとしか思えない。

 媚びない形で、理想の自分を築き上げたい。しかしそんなことできるのだろうか。自分は有用で、あなたのお役に立てます、是非使ってください、そんな風に言わないでいられるあり方があるのだろうか。

 それはきっとある。それはたぶん、そのままで居て何かしら人から求められるだけの実力を持つことができた運の良い人間だ。彼らは、きっと自分から売り込まなくても人からモテる。求められる。俺はつながるのが嫌なんじゃない。求められたいんだ。

 そしてこれは妬みでしかない。しかし自分を曲げて何かを発表して、それが受け入れられるまで自分を曲げ続けて、グニャグニャなものを褒められるか、あるいはグニャグニャになったまま死ぬ。そのどちらかしかないなんて苦しすぎる。

 役に立ちたくない。有用でありたくない。けれど求められたい。わがままだ。でも、自分が有用だって自分から言わなきゃいけないなんて、自分が無能であることの証明じゃないか。だって本当に有用ならきっと何も言わないでも求められるはずだから。

 無理してつながるのはつらい。誰かに見つけて欲しい。これは愚痴と妬みです。数年後こんな文章を読んで笑えるくらい安らかであることを祈る。自分の未来を神に祈る。おやすみなさい。良い夢を見よう。

お芝居をほんとうにしちゃった人たち

 星野源新垣結衣が結婚した。

 この一文を中学生のころのぼくに見せたらなんて言うだろう。「まさか」とか、「面白いね、小説?」とか言うのかな。

 あの頃のぼくはラジオを聴きながら片道一時間三十分かかる中学校に通っていた。星野源といえばラジオから流れるセンスの良い曲をつくる人だったし、新垣結衣は、通称ガッキーかわいい人気の人、くらいの認識だった。

 総武線の窓から雨の降る東京を眺めながら聴いていたJ-waveのニュース番組で、星野源の『フィルム』がながれる。

 あの時間、あの14歳の梅雨の日ぼくはたしかに幸福だった。星野源のファンになって数年。ぼくは幸福だった。

 それから三年くらい経って、星野源がCMをやっていた吉野家で、着々と出てくる星野源の人気になぜか苦々しく思いつつ食べた牛丼も美味しかった。『SUN』は最高の楽曲だった。

 『逃げ恥』が始まった。『恋』もダンスも最高だった。テレビの向こう側でお芝居をする星野源新垣結衣。中学生のころ、ぼくの幸せの大きな部分を担っていた音楽家。こうして世間で大人気になったマルチタレント。

 ぼくは自分で曲をつくり、ギターを弾いて歌って、星野源の真似をしてるみたいだった。中学生のころからずっと、真似をしてる。それだけ。それから、音楽大学に入学した。

 

 音楽大学には天才がいる。中学、高校にも天才はいた。いずれにせよ彼らは決してつよい人じゃなかった。けれど彼らの音楽はつよい音楽だった。明確な自己と個性を持った音楽。明確な自己なんて、実際には存在しない。けれど音楽のうえではたしかにある。

 彼らは天才を演じているように思えた。天才のお芝居と、それを可能にするだけの能力。それがあるからただひとつの自己みたいなものを音楽化して打ち出せるのだと思う。この認識は嫉妬からのものかもしれない。けど、彼ら本人と話すと、やっぱり彼らは自分の音楽ほどには強くなかった。

  なりたい自分になってしまった彼らはきっと幸福なんだろか。うまくいけばいずれ、なりたい自分がそれまでの自分を追い越して、なりたい自分そのものになっていく。よわい自分を捨てて、いつの間にかお芝居がほんとうになっていくのだろう。

 お芝居をほんとうにできれば幸せだと、思う。だからなりたい自分になるためにはたぶん、いまの自分と矛盾していたってお芝居を始めるしかない。つよくて、安定していて、才能あふれる自分のお芝居。

 星野源新垣結衣の結婚は、お芝居をほんとうにしちゃった感じがしてすこし不思議な気持ちになった。二人は幸せなのか、お芝居をほんとうにできるから二人には才能があるのだろうか、とか考えて、いや、そんな事とは関係なく愛情があるから結婚したんだ。という当たり前の結論に至る。祝福しています。

失われた未来と死んでいった文字について

 まず一行目に短文を置く。

 そして二行目で短文についての説明を始めたり、発展する未来のように、突然謎のセンテンスを入れたりする。

 文章の中における文字数はだんだんと増えていき、情報は厚みを増しながら最初の短文を補足していく。

 説明不足を取り返すかのように文章は細かさを増していき、時代背景や基礎知識が読者に与えられ、多少飛躍して文章着地していく。人間はすこしずつ変化していく文体に翻弄されているうちに先へ先へと文章を読んでしまう。それに抗うことはできない。

 見えない文章の隙間をうめていく。

 私たちに文章の隙間は見えない。私たちは文字を見ている。ディスプレイの空白を埋めていくように文字は次から次へと私たちの頭のなかに入っていき、浮かんでは消え、そしていつのまにかページは先へと進んでしまう。そこに私たちの意識が介在する余地はない。私たちは何も考えないでいい。あらゆる文章の可能性は空白のなかにあり、今読んでいる文字の先にある。文脈や行間の間には無限が広がっている。無限は目で追われるたびに文字になって固着されて、そして私たちの指は次のスクロールを始める。そうやって私たちは未来を失う。

 死んでいった未来の亡霊が都市を覆う。

 死んでいった未来の亡霊、それは文字の形をしている。文字とは私たちが見ている広告やネオン、案内、字幕、URL。それらすべてが資本の拡大のために用意され、資本という帰る場所を持つ。固定された未来が私たちの生活を覆い尽くしてしまった。

 渋谷のスクランブル交差点。夜。すべてのディスプレイが紫色の海を映し出す。音楽ははじまったーー。一定のリズムを刻むドラム、くぐもった音質。映像のなかに光る「pray for Nujabes」の文字。

 https://twitter.com/__casa/status/1232637787431555072?s=21

 Hip-HopアーティストのNujabesが亡くなったとき、ぼくは11歳で、音楽のことなんてまだ何も知らなかった。

 音楽のことなんてまだ何も。冬だった。寒い冬だった。半分しか丈のないズボンを履いて走り回る小学生たち。彼らは未来を知らない。彼らにとって資本が関わるとすれば遊戯王のカードかポテトチップスの袋くらいだった。

 その十年後、渋谷の街で、少年は涙を流すことになる。少年は、足を止めて『Lamp』を聴くことになる。少年は。

 ディスプレイに文字が躍る。

 死んだ文字が。

ウェルベックのセックスと闘争と愛についてーーミシェル・ウェルベック『素粒子』を読んで

  ミシェル・ウェルベックの『素粒子』を読み終えた。

 良かったのだろうか。ウェルベックの小説を読むたびにそう自分へ問いかける。この小説は良かったのだろうか。この小説を読んで良かったのだろうか。この小説は自分にとって良い影響を与えたのだろうか。

 この世への諦めと皮肉に満ちた内容、きらめくような情景描写、淡々と進む生活と救い、そして破滅。読むたびに悲しくなる。なんで俺はわざわざこんなに悲しいものを読んでいるんだろうという気持ちになる。それでも読み進めてしまう。

 それは魅力があるからなのか、それとも「良い」からなのだろうか。

 彼の小説が魅力的かどうかはわからない。けれどぼくは彼の小説が持つ「真実」というか「実感」のようなものに強く惹かれてしまう。生きるぼくにとってのひりひりした実感。悲しくなりたくはない。けれどひりひりした実感に共感したい。

 ウェルベックの小説にはある種の真実が書かれている。競争はぼくらの生活の細かな隙間にも入り込んでいること。何をしても勝者と敗者が決まってしまうこと。勝者になるのは簡単じゃないこと。勝者にとっても人生は楽じゃないってこと。ウェルベックの小説は敗者の物語じゃない。下克上の物語でもない。そこに出てくる人物はそこそこ豊かで、そこそこ満たされていて、どうしようもなく何かを諦めている。

 『素粒子』を読んでぼくは愛について考えた。ぼくは『素粒子』を読んで、愛について考えるような人になってしまった。いままでは愛について考える人じゃなかった。愛について考える人のことをちょっと遠ざけていたところもある。

 愛なんてない!恋なんて嘘だ!だって俺の気持ちはラブソングじゃ間に合わないんだ!そう、志磨遼平である。

 ぼくは思春期を毛皮のマリーズと共に過ごしてしまったから「愛を超えるものじゃないと愛じゃないのでは...?」みたいな逆説の沼にずぶずぶ入り込んでいるのだ。ぼくにとって愛は語り得ないもののはずだった。なのにどうしてか愛について考えている。もっと言うと愛と体について。

 ウェルベックの小説のなかで大きく挙げられているトピックが性愛だ。主人公はセックスを求め、振られたりうまくいったりする。セックスをして幸せになる。

 セックスは幸せをもたらす。つかの間の幸せを。恋人たちはつかの間の幸せを何度も繰り返し、めくるめく性愛の渦に溺れていく。それは幸福だ。幸福な毎日だ。たとえ加齢によって男性機能が衰えていたって。自分を受け入れる体があり、自分が受け入れていいと思える体がある。そこには呼吸があり鼓動があり体温があり生命がある。

 『素粒子』に出てくる人物はみんなとても丁寧なセックスをする。それはたまにTwitterで文句を言われてる「胸と性器をさわって濡らせて勃たせて入れて出しておしまい」みたいなセックスではない。

 目を合わせて肌の温度や滑らかさを感じて相手の反応を感じて相手の体温や鼓動を感じて呼吸まで一体化するようなセックスだ。AV監督の代々木忠が理想とするような愛のセックス。相手との一体化を求めるフュージョンのセックス。ウェルベックの小説に出てくる人物はどんな状況でも目の前の相手を見続ける。ヒッピーの集まるキャンプやデートクラブや乱交パーティーの中でも目の前の恋人との一体化を求めている。

 バタイユは『エロティシズム』のなかで人間同士の非連続性を嘆いた。僕らは何を考えてもだれ一人として他の人の意識を変えることはできない。精神的に人間は断絶されている。孤立している。それどころか肉体的にも孤立している。隣で手をつないだ人間が傷ついたって自分が傷つくわけじゃない。いまセックスしている相手が死んだって自分が死ぬことはない。個体の間には決して交わることのない深淵が広がっており、人間は絶対的に孤独である。うろ覚えで超訳するとこんなことを言っている。

 『素粒子』のなかでいちばん印象に残ったシーンは、つまりいちばん愛を感じたシーンは、主人公のブリュノがセックスをした翌日にテントのなかで恋人と朝を迎えるシーンだ。朝チュンのシーン。

 二人はベッドのなかでなぜか自分の抱える問題や過去のトラウマについて話し合う。相手に傷ついた姿を晒し相手の傷ついた姿を見ることで決して交わらない深淵を少しずつ埋めようとしているみたいに。それは存在の非連続性を越えようという試みにも見えた。相手の傷を自分のものにして自分の傷を相手のものにすることで自分と相手の境界を無くしていく。それは相手の快感を自分の快感にしてしまう、セックスのもつ貪欲さの裏返しだ。

 セックスも、朝に行われる精神的な自傷行為も、人間の絶対的な孤独を解消するための試みだ。孤独の解消、それは決して叶うことのない望みだけど、それを分かりつつ、叶わないことに傷つきつつもお互いを受け入れ合う。ぼくにとってウェルベック朝チュンはそんな健気なシーンに見えた。

 その健気さを見てぼくは愛という言葉を思い出したのだ。相手を愛することは結局、自分の欲望を相手にぶつけるだけの身勝手な行為かもしれない。うまくいけば相手を理解した気になることだってできる。けれどそんなのは幻想だ。自分の世界のなかに相手を落としこんだに過ぎないからだ。

 しかし、それでもぼくらは相手を理解しようとする。自分と相手の間にある断絶をすこしでもを埋めようとする。それは愛の試みじゃないのかと思う。愛とは、自分の欲望を勝手なものと知りながらも、健気に孤独を埋めようとする試みのことなんじゃないか。相手への愛が自分への愛になる、自分への愛が相手への愛になる。絶対に知り得ない相手のすべてと絶対に語り得ない自分のすべてをお互いに抱えたまま勝手に理解し合う孤独な生物が二人。

 そんなロマンチックな世界をぼくは『素粒子』のなかに見た。愛らしきものの手触りが持つ暖かさや柔らかさは、ウェルベックの描く極限まで闘争領域が拡大した社会の灼けつくような実感や焦りと交互に現れながらひとつの巨大なうねりとなって物語を進めていく。ぼくは闘争の中に愛を見た。愛の中に闘争を見た。交わりそうで交わらない愛と闘争はこのどうしようもない世界を進めていく。


「男女はまぐわりおんなじ動作を数万回、繰り返し続ける」ーー向井秀徳『Water Front』より。

https://youtu.be/TELGHn9WaOg

わかってない本好きのいい加減なトリップ

「まったくわからない」が、俺が本を読んでいるときの基本的な態度である。俺は頭が悪い。何が書いてあるかがわからない。文字は読める。何かが書いてあるのはわかる。

 たとえば、「二つの美学が存在する。鏡の受動的な美学と、プリズムの能動的な美学。前者に導かれて芸術は、環境もしくは個人の精神史の客観的な模写となる。後者に導かれて芸術は、みずからを救い、世界をその道具とし、空間と時間という牢獄から遠く隔たったところで、独自のヴィジョンを創出する。これが<ウルトラ>の美学である。その意思は創造にある。宇宙に思いもよらぬ切り子面を刻むことにある。」(引用元:J・L・ボルヘス著 鼓 直訳『伝奇集』岩波文庫)

 と書かれている。意味がわからない。意味がわからないがなにかしら意味のあるようなことが書かれているようでもある。

 無理に解釈しようとすればできるかもしれない。つまりは美学について書かれていて、その美学の分類とそれぞれの効用や目指すところが書かれているのだろう。

 こんなふうにして一つの言葉を少しずつ見ていけば意味はわかるかもしれないけど言葉で構成された理解は実感を伴わなければ感情的に分かった、という感じもしないのだ。ただ言葉を言葉によって分解しただけというような感じがする。

 こうして書いてみると俺はまったく感情と感覚の人間であることがわかる。俺がわからないと思うものたちはたぶん理屈で書かれているのだろう。論理的に正しいから正しい論証である、ということだろう。それはまったく正しい。絶対に正しい。正しいけれどわからない。演繹的論証というやつだ。絶対に正しい論証。正しいのはわかるけどそれ以上はわからない。

 俺に理解できるのは感情だけだ。それも自分の感情だけだ。自分の感情に近いところの文字なら理解できるのだろうか、いや、たぶん理解できないのだろう。そもそも理解なんて存在するのだろうか。

 たとえばある小説の書評や解説を読んだとき、作者はこういった思想でこういった経歴でこういったことを書いている。ということはこういうことがいいたいのだ、と主張されていることがあるが、俺にはあまり納得できない。それは普段の言葉の使い方から抜け出てないのではないだろうか。国語のテストでやった、「作者の気持ちを考えよう」ゲームとあまり違いがないような気がしてしまう。

 俺は小説を理想化しているところがあるから、小説を書くということは普段の生活や世界で流通する言葉に何かしらの不満を感じているはずだ、と思っている。つまり普段の思考や言葉の使い方を超えたところに小説の言葉はあるのだ。それは現状の社会に対してもうひとつの社会を構築することだったり、現状の感覚にたいしてもうひとつの感覚を構築することだったり、現状の人生に対してもうひとつの人生を...といったように、小説は常にいまの何かを飛び越えるために書かれると思っている。

 だから作者の気持ちを考えてもしょうがないし、作者の個人史から解釈を読み解いてみてもしょうがないと思っている。解釈や気持ちなんていうのは「いまの何か」に根差したものだからだ。せっかくそこを飛び越えているものを、無理やり「いまの何か」に落とし込んでしまうような気がしてしまうのだ。無理矢理いうと、小説を読むことは小説を読んでいるその瞬間にしか達成されない。

 そんなふうに思いながらも書評を読んで面白いと思ったり、哲学書の解説を読んでなるほどと思っていたりするのだから俺という人間はとにかくいい加減なのだ。

 そして面白いと思いながらも、書評や解説書を読むと唖然とする。世の中には俺がまったくわからんと思いながら読んでいるものを理解して解釈して一定の文字にすることができるひとたちがいるのだ。これは歴然とした知力の差だ。

 そうしてまた、自分にはなんて理解力がないのだろう、と思いながら小説を読む。まったくわからん。しかしわからんなりに実感として変な気持ちになったり面白いと思ったりする。感覚や感情が動き、形而上的な世界に連れていかれたりする。しかしそれはまったくわからんまま、わからんなりの実感である。知力に裏付けられていないインチキのトリップだ。いいかげんなトリップだ。

 ジャンキーが化学式などわからないまま幸せな世界にトリップしているようなもので、小説世界で起きていることも筋もわからないままに言葉だけが駆動してイメージを紡いでいる。それは作家の意図を超えて、俺の頭で勝手に無分別に起こることだ。あまり品の良いことではないが、いいかげんでも気持ちよければ良いのだ、とも思う。そうすると、理解できる小説ではなく感覚に合う小説だけを読むことになる。割り切ってしまえばそれで幸福である。でも、わからんものをわかりたい気持ちもある。でもわからん。やっぱり、まったくわからない、でも、幸せになるときもある。

テレビみて一緒に笑いたい家族計画でした

 テレビでは人を殺したニュースが流れていて「よく簡単に人を殺せるよね」なんて言った父親が次の瞬間には岩盤浴の広告を見て少しだけ笑いを噴き出したりしていて、人が死んだことを嘆いた三秒後に笑う感覚が一般的なんだろーか、と思い、じゃあいつもぼくは繊細すぎるとか、何で言われんだろうなと悩んでみても、お腹が空くのでとりあえず茹でてるパスタのことを考えることにする。

 パスタは熱にかけられた鍋のなかで無限の円運動を繰り返し繰り返して、水の対流の中を回り続けている、これはまるで箱庭みたいだ、シミュレーションゲームみたいだ、と思いながら鍋のそこから湧き上がってくるグツグツとした泡。あわあわあわ、これらが上がってきては弾ける弾けるのを見ている。あと七分。テレビからマーチングバンドの音楽と、それに合わせて踊る男たちのCM。車のCM。

 退屈な生活、そんなフレーズを考えながら、七分間待つだけ、人が殺された、人を殺したニュースは毎日のように流れてくるけど、その合間に流されるCMだって人を殺しそうなくらい冗長だって思う。僕は実家に居る独身のフリーター男性として、どうしようもないとされる人間の一人として生きている。そのぼくがこうして社会やマジョリティに反感を覚えながら生きている。ここに対立軸がある。ぼくと一本線を挟んだ向かい側にあるものたち。

 タイマーが鳴った。ずいぶんと早い七分間だ。フライパンのなかにトマト。あとアサリ。貝を歯で挟んでつぶした時に流れ出てくる汁はおいしい、その食感は少しだけゴリとしていて水分を含んだようでもあって、何かいけないものを歯で挟んでしまったような気がして好きだ、貝の食感は、なにか取り返しのつかないものに触れた感じがある。

 パスタソースとパスタを混ぜる。フライパンの上に、鍋から直接パスタを入れる。男の料理だと、言ってしまえば何故だか雑なところやがさつなところが許される気がする、こういうのを自動思考と言うのだろう。自動的に愛、とか、絆とかね、そういう言葉を再生しては何か一体感が生まれるこの脳内。脳内のようにパスタは整然としていて首尾良くソースに絡まってくれる。

 仕事はどうするんだ、とか、父は決して言わない。ずいぶんとお金がかかっているはずなのにね、ぼくには。パスタを皿に入れて、リビングへ向かう。テレビの音が近づく。テレビが一番よく見える席で、父親がグラスにレモンと焼酎と炭酸水でレモンサワーを作ってる。テレビでは殺人的なCMが流れていてぼくは、少し多く茹ですぎたパスタを食べる時間を考える。そのあいだ、テレビを見なきゃいけない。ぼくは自分にかけられた金を考えて罪悪感を感じながら、父親と同じ空間を生きていかなきゃいけない。父親は寛容な人間だ。テレビをみて一緒に笑いたかったなあ笑えるくらいの寛容さが欲しかったなあと思いながら、トマトを噛み潰してみて、酸味。美味しいのだろうか、これは酸味。